2014年7月23日水曜日

我が、蹉跌のオーディオファイル #06
デジタル音

昨 今、デジタル(CD)は完全にアナログ(レコード)を凌駕した、と云うと何だかそれらしくて確かにそうだと思ってしまう。

市場はCDばっかりで、レコード 店などちょっと歩いたくらいではまず見付からない。ところが、これに「音」を付けて「デジタル音」は完全に「アナログ音」を凌駕した。と書き直してみる と、ちょっと待てよと首を傾げたくなる。

本当にそうか。
何を凌駕したのか。

無くなった筈のレコード店はあるところにはちゃんとあり、箆棒に高価でそれでも店は立派に成り立っている。ネットオークションでも1枚数十万というのも出品されていてポツポツ買い手が付いている。

何故なのか。

一つは演奏家の問題がある。ハスキルやバックハウス、フルトヴェングラー、クナッペルツプッシュといった人達はもういない。だからレコードに頼るしか彼らの演奏を聴き様が無いというのが大きな要素だろう。

しかし、彼らのレコードの大部分はCD化されているから特に問題は無い筈なのに、どっこいレコードが売れている。

ジャズを僕は余り聞かないが、ここでも同様の現象が起きており、たまに見かけるレコード店ではやはり信じられない正札が付いている。やけっぱちで付けた値段でもなさそうで、ちゃんと売れることを想定しての値付けと見た。

どういうことなのか。
当り前だが買う人がいるからだ。

では何故その人達は同じフルトヴェングラーの演奏を充分にこなれた価格のCDではなくて高い方のレコードを買おうとするのか。

写真界ではプロがデジタルを使い始めてから一気にデジタル化が加速し、ヨドバシもビックカメラもフィルム売り場は思い切り縮小されている。
最大の原因は撮影コストにある。フィルム時代に100万円だったコストが今や1万円に満たない。それで出来たポスターや雑誌の写真はデジタルとフィルムの見分けは、少なくとも素人には付かないから、特にコマーシャル系のカメラマンは挙ってデジタルを使うようになった。

プロカメラマンならずとも、お年寄りの最も健康的な趣味としての写真も、カメラさえ買ってしまえばランニングコスト0である。

それまではフィルムを買って、現像して、紙焼きして、36枚撮りネガが一本350円、現像600円、紙焼き360円として1,310円掛っていた。

年金暮らしのお年寄りがデジタルに向かったのは当然の軌跡ともいえる。
リコーのGRシリーズなどは素晴らしい描写をするから、ハッセル級の写真が楽しめる。しかもポケットに入れられるので、重いリュックや三脚からも解放される。いよいよお年寄り向きである。
写真界はだからほぼ世代交代が完了したと云ってよいだろう。

だが、本当の写真の世界というのはこうした現象を超越したところにあり、デジタルのギザの無い世界、光と化学反応で絵を造ってゆく本来の写真の世界はちゃんと生きているしこれからも生き続けるだろう。

その点は音の世界と似ているが、決定的に違うことは、最高の写真の世界は特殊化した小さな世界、専門分野としてしか残らないだろうが、音の世界はアナログ音の世界が一部復権し、新たな世界を創造するかもしれないという所にある。

今、レコードが売れている。

取り回しの便利さやノイズの無い音で一気に市場を席巻したデジタルの音に、限界が見えているのではないか。というより端から限界はあったのだ。要するに音質的に逆立ちしてもデジタル音はレコードの音に適わない。

のみならず我々が生身の生き物だと云う所に決定的な決め手があるのではないか。
ガラスを引っ掻く音を一日中聴かされたら、僕ならそれだけで相当衰弱し、三日続けられたら発狂するかもしれない。5日目にはきっと悶死するだろう。

何 かの映画で見たが刑事の取り調べの場面で、電気で一晩中目玉を照らし、耳の傍で喚き続けて(つまり騒音をたてて)眠らせないという一種の拷問を三日ほど続 けるとやってない人殺しも眠りたい一心で「やりました」と云ってしまう。刑事はにやりと笑って目出度く冤罪は成立する。実際問題、生理現象を逆なでするよ うな音は充分に拷問の役に立つだろう。

砒素という毒薬は即効性では青酸カリに及ばないが、少量ずつ与えるとじわじわと人体を衰弱させ数カ月、調整によっては数年がかりで衰弱死させることが出来るという陰険な毒物である。
近頃若者が矢鱈にキレやすく、些細な事で凶行に及ぶ犯罪が増えた。

直接的な原因は教育にあり、核家族制度が遠因であるように思えてならないが、それだけではなく、食べ物にも遠因があるに違いないと思う。

砒素と同じで知らない間に体の中で何かが変化してゆく、毎日三度口から入れて、体の中を通る間栄養として様々なものを吸収し毒も吸収し、滓になって肛門からにょろにょろ出てくる様々な食べ物が体に何の影響も与えない筈が無い。

音もそうだと僕は思っている。

耳 から入って脳味噌に至り、中で音として知覚させる空気の波動が脳に何らの影響も与えないとは思えない。食べ物にはちゃんと肛門という出口があるからまだい いが、音には出口が無く脳の中で音そのものは消滅しても放射能の様に消えない、記憶とは別の何かが残り、長い年月を経て沈殿しそれが脳に何らかの影響を与 えるのではないかと思えてならない。

イヤホーンでシャカシャカやっている若者の目が共通して虚ろなのを見るに付けそう思うのである。同時に可哀相だとも思う。

聴 いてみればわかる事だが、音源も含めてあれだけの汚い音を、しかも大音量で聴き続ければ誰の目だって虚ろになるし、知らずのうちに気持も荒れてくるだろ う。「もう少し静かに出来ないか」などと諭されようものなら、瞬時に頭を沸騰させ「うるせえ、糞ジジイ!殺したろうけえ!」などと凄いところへ飛躍する。 近頃は日教組のお陰で言葉も穢い。

生まれた時からデジタル時代の彼らは、CDやらDVDやらMDやら、ぎすぎすした音ばかり聴かされてきた。これでは赤ん坊の時から砒素を盛られているようなものだ。脳に何らかの毒物が沈殿しているのかもしれない。

必ずしもメーカーばかりの責任とは思わないが、音が長い時間を掛けて人体に(脳に)及ぼす影響をもうメーカーは考えても良いのではないか。そろそろ質の悪い音を若者の脳味噌に送り込むのは止めて、一昔前自分達が造っていた素晴らしい音を思い出してみてはどうだろう。
それは決して後戻りなどではなく、素晴らしい前進になると僕は思う。

2010.08.10 

2014年7月15日火曜日

我が、蹉跌のオーディオファイル #05
救世主、新藤ラボ 

小さな扉を見付けるのに苦労し、やっと探し当てて開けると狭い階段があって、登り切った所が新藤ラボだった。

愛想もこそもなく、変な目つきの小男が一人忙し なくパイプ咥えながらじっと僕を見ており他には誰も居なかった。視線が熱いのが異様だったが、ややあって彼は近づいてきて「聴いてみるかい」という。「何 だいらっしゃいませもねーでそれかい」と思ったがそこは耐え頷いて椅子に座った。

男の動作はどうにも忙しなかった。目をパチパチさせ、パイプをカチカチならしながら、ブルブル震える手で針を下すとまたじっと僕を見つめた。

音が鳴った。素晴らしかった。身を乗り出して僕は聴き、瞬時に男の存在を忘れていた。
気が付くと男の顔が今にも触れんばかりに僕の顔に近付いていた。「どうだい」
顔が引きつり、目も吊りあがって血走っていた。耳元に男の息を感じる。

「どうだ」と云われても気持ち悪さが先行した。乗り出していた身をぐっと反らせて改めて男を見ると、パイプを持つ手は相変わらずワナワナと震え、何が云いたいのかモゴモゴ口籠っている。このバイブレーターの様な男はどうにもいかんのでここは一端退散することにした。
帰りの車中、既にこのアンプを買う事は決めていたが、音と男の印象が不釣り合いで納得がゆかなかった。

RA1474はフォノ専用のイコライザーアンプ。124DWE-350Bプッシュプルのメインアンプで迫力満点、加えて繊細でもあるからVitavox CN-191を鳴らすのには理想的だろうとこの時半ば確信していた。

数日後再度新藤ラボを訪ねた時、男は居らず代わりに女の人がいたので先日の話をすると苦笑して言うに「かの人物は客」だと、二度びっくりである。
ややあって体中の全ての輪郭が猛烈にはっきりした人物が入ってきた。
その人が新藤さんだった。得心するとと同時に安心した。もう一度男の話が出て大笑い「そういう人なのだ」という。趣味も高じると命取りになり兼ねない。

新藤さんは好人物であった。嘘を言わず、云った事はやり、出来ない事は云わない人だった。この時の印象は35年たった今でも変わることは無い。
メーカーや販売店に有り勝ちな虚飾が一切なく、右だと云ったら左でも中間でもなく徹底して右だから解り易くもあった。

Mcintosh C22,MC275に関してはぼろ糞で、そもそも音全体に締りのないアンプだから、音のバランスを期待する方が間違っている。「あそう、買っちゃったの」・・・・

「お気の毒」・・・の一言でちょん。もう少しやさしい言葉はねーのかい。ねーんだなこれが。

RA1474124Dはキットで買うことになり週2度程此処に来て自分で組み立てることになった。キットと云っても部品は既に取り付けられており、配線だけすれば良 い状態だったから不器用な僕にも出来たのだが、半田鏝と机が用意され、それから一ヶ月半程通った間新藤さんとは随分色々な話をした。
常に明快な人だから解りやすく、物事に対する考え方は良く理解できて、音造りと云うのは要するに人柄だということがこの時良くわかった。

僕は写真をやるが、写真は撮り手の性格が出る。怖いほど出る。
撮った被写体の影に自分が映っているのである。
音造りもやはり造り手の音が鳴っているものだ。

日本人の美に対する感覚は欧米人とはちょっと違って、音でいえば水琴窟や鼓、といった単音に感じ入る様な繊細さを持っている。
反面グランドキャニオンの巨大な静けさややナイアガラの爆音の様なスケール感に欠けるところがある。

環境が違うから当り前のことだが、音楽にはこの二つの要素が必要で、新藤さんの音はそれに近かった。

最近では新藤アンプは寧ろ海外で注目されているというところが、何やらこんなところにも国情が反映されているようで悲しい。
65年の間に我々日本民族が失ったのは、こうした無形の心に拘わる感性ではなかったか。

Vitavox CN-191は見違えるような音で鳴り出した。

結構僕は満足していたが、新藤さんはVitavox CN-191の欠陥を二つばかり挙げ、これだけは直しておこうという事になった。

中高音用S-2ドライバーの裏蓋がプラスティックなので此処で音が死んでいる、従ってこれをステンの削り出しで造り直す。ネットワークがチャチでここでも音が死んでいるのでしっかりしたものに造り直す。という2点だった。

特性のコイルとオイルコンデンサーを使って造り直し、この2か所の改良で夢の様な音に変身した。

序にスピーカーの内部配線も良質の物に換えた。
これで僕は充分満足だった。有難うを僕は連発したが、まだあった。

これはスピーカーの欠陥ではなく、我家の普請の問題だった。
このスピーカーは部屋のコーナーに嵌めこむように造られていて、裏から見るとだから骨組みだけでがらんどうである。
従って壁が低音ホーンの一部を代用するように出来ているので、理想的な低音を出すには壁がしっかりしている必要がある。
我家は2×4の安普請だから、建てるときに気を使って壁に木の板を張り付けていたが充分ではないとのことで、裏蓋を付ける事になった。
これで低音はぐっと締りが付いて、音全体のバランスがぴったりとれた。
序にウーハーを外し、エッジに何やら塗り、乾くとこれで孫の代までエッジがへ垂れることは無いという。

Vitavox CN-191に施した改良は以上である。
おそらくこれでVitavox CN-191コーナーホーンの持つ可能性の殆ど全てを引き出すことに成功したと僕は思っている。
新藤さんは何も言わなかったが、おそらく同様に思っていることだろう。それ以降スピーカーについては発言が無い。

これをRA1474124Dで鳴らし、プレイヤーはGarrard 301のセンタスピンドルを改良してでかいターンテーブルを乗せ、アームにOrtofon RF297に厳選したSPU-Aをチューンアップした眼も眩むようなカートリッジ, という組み合わせが出来上がった。

それから35年僕はこのシステムで音楽を聴いた。
オーディオには幾つか頂点があるが、このシステムも一つの頂点だったと思っている。
当然、これ以上の音が存在することを僕は知っているが、果たして家庭に持ち込むに相応しいかどうか聴いてみて疑問を感じたことがあった。

ウェスタン15Aホーンである。

某所で聴いたがこれは凄かった。
ピアノがピアノよりピアノらしかった。もう桁違いで比較対象の問題ではなかった。
15A ホーンは御承知の通り劇場や映画館用であり、客席は20~50メートル以上離れたところにあり、且つ天井はビルの数階分の高さがあることを想定して、観客 に如何に心地よくしかも巨大なスケール感を味あわせるかという事がコンセプトだったろうから桁違いは寧ろ当然の性能と云ってよいが、それをこの時は距離約 4メートル程、天井高2.5メートル程の所で聴いたのだから、それは腰も抜けよう凄まじさだった。


この時ハスキルは正しく男だった。「げー」と僕はのけ反った。僕の大好きなハスキルが。
家に帰っていそいそと僕は同じレコードをVitavox CN-191で聴いた。

紛れもなくハスキル はエレガントな女流ピアニストだった。
ハスキルのモーツアルト、これ程無心で典雅な音楽は無い。Vitavox CN-191ならずともこれがちゃんと聴けるなら、スピーカーは何だっていい。
新藤ラボの音造りは要するにハスキルのピアノをハスキルのピアノで聴かせてくれるのである。




この人に出会わなかったら、僕は未だに迷い続けていただろう。

2010.08.05

2014年7月8日火曜日

我が、蹉跌のオーディオファイル #04
評論家て何、オーディオ評論家とは


「邂逅」という言葉を金田一先生の国語辞典で引くと「めぐりあうこと、めぐりあい」とある。
新村先生の広辞苑 には「思いがけなく出会うこと、めぐりあうこと、たまさかに遇うこと」とより丁寧な解説がある。「遇う」という文字で完璧に意味が理解できる。

35年前、僕のオーディオに於ける一つの邂逅があった。
今回は少し遡ってみる。

テレビのお陰で1億の国民が皆評論家の要素を色濃く持ち始め、その中で特別口の減らない人達が、マスコミや企業、政治団体などから金を取って生業とするようになった。
その草分けだった大宅壮一さんがテレビの創生期にこれを評して云ったのは「1億総白痴」であった。
同じことを当時のソニーの取締役も云っていた。流石に公に云ったのではなく私的な集まりの時の発言だったが。

街 頭テレビに人々は群がり、力道山の空手チョップに僕らは皆本気で興奮しシャープ兄弟を殺せと息巻き国中が沸騰した。少しずつ一般家庭にテレビが浸透してき た頃、噛みつき魔フレッド・ブラッシー が力道山の額に噛みつき、噴き出る血潮を見た茶の間の年寄りがショック死した。
今ならもう解っていることだが、プロレスはショーである。あの当時僕らは皆テレビ会社に担がれていたわけで、テレビはその創生期に於いて既に我々国民を欺いていたと云ってよいだろう。

マスコミが正しいなどと思うのはだから愚の骨頂である。
プロレスならまだ罪は無いが、政治的世論を操るようになると国自体に深刻な影響を及ぼすことになる。
例えが良いかどうか解らないが、今は軍部の独走が誤りだったと論破している同じ口で、戦前鬼畜米英討つべしと世論を煽ったのはマスコミである。

彼 らも所詮は商売だから、世論を操って自分たちが操ったその世論に巧みに阿ねて金にしているのである。変わり身も世論を左右している商売なだけに滅法早く、 戦争で負けた途端に「悪かったのは全て軍部だった」として「おっぺけぺっぽ、ぺっぽっぽ」などと軍部批判の歌まで流行らせた。

東条さんはどう見ても罪があったと僕も思うし軍部の稚拙さにも腹が立つが、それ以上に罪深いのはマスコミだったのではないか。自分たちは血を流さず、裁かれもしなかった。

そ うしたマスコミの尻馬に乗っているのが評論家で、今では「バーベキュー評論家」などというのまで存在するらしい。肉を焼いて食べるのに何の論評が必要であ るか理解に苦しむが、こういう詰まらん者をテレビに登場させるのはテレビ会社即ちマスコミだという事にもう少し批判の目を向けてもよいのではないか。

40年ほど前、オーディオ界ではどう云う訳かオーディオをネタにして金を盗る人達をオーディオ評論家と呼び、メーカーや出版社そして販売店が重宝し、確かな耳を持たなかった当時のオーディオファンは彼らを神の様に崇め、云われるままに辺りを徘徊して金をばら撒いた。

音を知らないという意味では実は彼らが僕らと変わるところは全くなかったのだが、何でも自信を持って言い切る所に拠所を持たない多くの読者(オーディオファン)が振り回された。
自信の源がメーカーや商社の広報室に有り、マスコミのバックアップにあるのは云うまでもあるまい。
彼らの進みたいところに提灯を向ければ良いので、彼らが何を抱えて歩いているかと云う事はどうでもよかったとしか言いようのない発言が続いた。

この人たちは今どうしているのだろう。

僕はこの人たちを無視し、オーディオ関係誌も読まなくなって35年になるから現在の姿は解らない。が、少なくとも当時はこういう風だった。

趣味の問題は100%自己責任だから、それで泣いたって本人が悪いに決まっている。
僕を含めた多くの彷徨える人々の散財はだから評論家の所為ではない。
それは解っているが、35年前彼らに担がれた不快感は未だに払拭されないでいる。

聞いた話で本当かどうか知らないが、ある大金持ちの超マニアが部屋にカーテンを引き、後ろで交響楽団のメンバー数人に演奏してもらい、評論家達を呼んでオー ディオ機器の当てっこをして貰ったら、皆口々にこれは何、あれは何としたり顔だったという。おまけにもうちょっと音の粒立ちが良ければ、とか低音を締めたらもっと良くなるだろうとか、色々注文もあったという。
おそらく嘘だろう。
だがこの逸話は彼らのあり様を良く物語っている。本当にやったらさもありなんと思う。

僕がヴァイタボックス・コーナーホーン(Vitavox CN-191)を見付けたのは、当時良く通っていたオーディ店の小部屋であった。まるで隠すように置いてあったのを目敏く見付け「これを聴かせて欲しい」と云ったら何となく渋っていた。

値段を聴いたら156万円だとどういう訳か渋々答え、「買う」と云うと値が張るのでローン会社の信用がつくかどうか、とまた渋った。
僕の誤解かもしれないが、余り売りたくない様子が見て取れ、ローン会社の信用が付くととても残念そうだった。どうしてだか解らなかったが、このVitavox CN-191は最後のUKオリジナル品と後でわかった。

が、兎も角このVitavox CN-191が僕の部屋に安置された。


素晴らしい音だ、とは残念ながら云えなかった。原因がこのスピーカーを鳴らすアンプやカートリッジその他のレベルが低すぎるところに有ることは解っていた。
色々探した結果、最終的に選んだのはマッキン(Mcintosh C22MC275)だった。

当時最高のアンプだと各誌が誉め讃え、評論家も挙ってこれ以上のアンプは無いと絶賛しているから間違いは無かろうと思ったのである。
当時の趨勢はとっくにトランジスタに換わっていたのと、このアンプを手放す人が少なかったのか市場には殆ど出回る事が無く、探すのには時間が掛ったが。
何とか見付けて欣喜雀躍音を出したがそれは酷いものだった。
LAXの真空管アンプよりはスケールが大きかったが音質は大差ない。
僕が評論家に疑問を持ったのはこの時である。

プレイヤーはこれも彼らが絶賛するトーレンス(THORENS TD124)。アームは矢張り先生方ご推薦のSME3012,カートリッジはエンパイア(EMPIRE 1000ZEX)。

低音がぶかぶかで、音は出たが音楽にならなかった。

プ レイヤーが悪いかと思ってマイクロの、巨大なターンテーブルを空気で浮かし、糸で回す奴に買い替えたが、これは一段と酷い物で空気が漏れてターンテーブル が傾きシャーシーに触れて一周毎にゴトゴト音がした。アフターサービスも最悪で新品の欠陥品は結局治らないまま、正常なものとの交換も無かった。
当時力は滅法あったので海に投げ込んだ。売るにも売れないし、付け物は家では付けて居なかったし、バーベルなら持っていたのでもういらない。
第一見るのも嫌だった。
だが、音の悪い原因がプレイヤーに有る訳ではなかった様だから、ならば原因はアンプしかない事になる。

買ったばかりのマッキンを買い替えねばならんとは不愉快の極みだが駄目なんだから仕方あるまい。

と は云うもののどんなアンプがあるか知っているわけではないし、当てがあるわけでもなかった。

しょうがないから当時出版されていたオーディオ機器の総目録を 隅から隅まで読んだ。巻末のスペック集は論評なしだったから、そこばかり何回も読み直したが、本から音が出る訳でなし決定打が打てる筈も無かったが、藁お も掴む思いで印象に残ったものを拾い出し、それを何回も見比べて最後に残ったものの音を聴いて確認することにした。




最後に残ったのは「RA1474」 とメインアンプの「124D」だった。
メーカーは新藤ラボラトリーとある。

聞いたことが無い。

どうせ碌でも無かろうが音が悪けりゃ買わなければいい。
兎も角行ってみることにした。

2010.08.04 

2014年7月2日水曜日

我が、蹉跌のオーディオファイル #03
厳しい批評家

 時間ができたので、再度Venetorの平塚の視聴室を訪ねたところ、厚みのある弁当箱サイズのアンプが6台(赤、黄色、シルバー、ワインレッド、白)あった、量産試作機が出来上がったとの事、早速視聴させてもらった。小さいボデイでYAMAHAの黒檀張りNS-1000Mを堂々と鳴らしていた。

DAコンバータ、ヘッドフォン・アンプ、パワー・アンプを備えているので名前をDIG(デジタル・グランド・インテグレーティッド・アンプリファイアー)と商標登録を済ませたとスタッフの説明。


帰りがけにDIGを借りたいと頼んでみたら、今のところ販売予定のない赤、黄色、ワインレッドの内どれでもどうぞとあっさり信用してくれたので黄色を持ち帰り自宅で早速鳴らした、小さいのに大した馬力である、ショウルームで聴いたときより良かった。

前回のブログからそう時間は経っていない。舌の根は全く乾いていないが少し云い直して置く。前回僕は「近未来僕の装置はパソコンとDACベネター192Kとメインアンプとスピーカーだけになるだろう」と書いた。

それを「パソコンとDIGとスピーカーだけになるかも知れない」と書き直そう。
更に、もしパソコンとDIGが一つになれば(つまりどちらかがどちらかへ組み込まれるなら)「DIGとスピーカーだけになるかも知れない」と。

借りてきたDIGのプロトタイプは、密かに寝室に持ち込み(買ったのか。いや借りたのだという会話が面倒なので)こっそり聞いていたら、ちょうどその日に自 宅のオール電化の工事が入り、家内がこの部屋に避難してきて本を読み始めたので其の儘に聴かせたところ、ややあって突然「あら!」と云った。続けて「これ ならもっと良いスピーカーが欲しくなるわね」と首を傾げる事しきり。家内はヴァイタボックス以外僕のオーディオ装置を誉めた事が無く「きつい音ね」とか 「汚い音でよく平気ね」等とホザキ、「また何か買ったんじゃないでしょうね」と辺りをねめ回すのが常だから、僕は何時もびくびくしているわけで、これには びっくりびっくり。
本当に首を傾げたのは僕の方であった。

Venetor DiG
Venetor DiG

DIGはとてもコンパクトで黄色はフェラーリと同じ塗料が塗ってあり、文字通り色々あって楽しいので試作の全色をぜひ販売してほしい、音は抜群に良い、まさにDACを組み込んだフォノ無しのプリメインアンプである。
山椒は小粒でもピリリと辛い、というがこれはピリリどころではない。


DIGも平塚の試聴室で聴く事が出来るが、開発中の試作機の視聴もやっているが、探りで来るメーカーの人や自分のシステムを長々と自慢し仕事の邪魔する人はお断り、音楽を聴くのが好きな人は大歓迎だそうだ是非とも愛聴のCDをお持ちくださいとの事。
お世話になったので取敢えず宣伝しておきます。

DIG

2010.08.03