2014年7月15日火曜日

我が、蹉跌のオーディオファイル #05
救世主、新藤ラボ 

小さな扉を見付けるのに苦労し、やっと探し当てて開けると狭い階段があって、登り切った所が新藤ラボだった。

愛想もこそもなく、変な目つきの小男が一人忙し なくパイプ咥えながらじっと僕を見ており他には誰も居なかった。視線が熱いのが異様だったが、ややあって彼は近づいてきて「聴いてみるかい」という。「何 だいらっしゃいませもねーでそれかい」と思ったがそこは耐え頷いて椅子に座った。

男の動作はどうにも忙しなかった。目をパチパチさせ、パイプをカチカチならしながら、ブルブル震える手で針を下すとまたじっと僕を見つめた。

音が鳴った。素晴らしかった。身を乗り出して僕は聴き、瞬時に男の存在を忘れていた。
気が付くと男の顔が今にも触れんばかりに僕の顔に近付いていた。「どうだい」
顔が引きつり、目も吊りあがって血走っていた。耳元に男の息を感じる。

「どうだ」と云われても気持ち悪さが先行した。乗り出していた身をぐっと反らせて改めて男を見ると、パイプを持つ手は相変わらずワナワナと震え、何が云いたいのかモゴモゴ口籠っている。このバイブレーターの様な男はどうにもいかんのでここは一端退散することにした。
帰りの車中、既にこのアンプを買う事は決めていたが、音と男の印象が不釣り合いで納得がゆかなかった。

RA1474はフォノ専用のイコライザーアンプ。124DWE-350Bプッシュプルのメインアンプで迫力満点、加えて繊細でもあるからVitavox CN-191を鳴らすのには理想的だろうとこの時半ば確信していた。

数日後再度新藤ラボを訪ねた時、男は居らず代わりに女の人がいたので先日の話をすると苦笑して言うに「かの人物は客」だと、二度びっくりである。
ややあって体中の全ての輪郭が猛烈にはっきりした人物が入ってきた。
その人が新藤さんだった。得心するとと同時に安心した。もう一度男の話が出て大笑い「そういう人なのだ」という。趣味も高じると命取りになり兼ねない。

新藤さんは好人物であった。嘘を言わず、云った事はやり、出来ない事は云わない人だった。この時の印象は35年たった今でも変わることは無い。
メーカーや販売店に有り勝ちな虚飾が一切なく、右だと云ったら左でも中間でもなく徹底して右だから解り易くもあった。

Mcintosh C22,MC275に関してはぼろ糞で、そもそも音全体に締りのないアンプだから、音のバランスを期待する方が間違っている。「あそう、買っちゃったの」・・・・

「お気の毒」・・・の一言でちょん。もう少しやさしい言葉はねーのかい。ねーんだなこれが。

RA1474124Dはキットで買うことになり週2度程此処に来て自分で組み立てることになった。キットと云っても部品は既に取り付けられており、配線だけすれば良 い状態だったから不器用な僕にも出来たのだが、半田鏝と机が用意され、それから一ヶ月半程通った間新藤さんとは随分色々な話をした。
常に明快な人だから解りやすく、物事に対する考え方は良く理解できて、音造りと云うのは要するに人柄だということがこの時良くわかった。

僕は写真をやるが、写真は撮り手の性格が出る。怖いほど出る。
撮った被写体の影に自分が映っているのである。
音造りもやはり造り手の音が鳴っているものだ。

日本人の美に対する感覚は欧米人とはちょっと違って、音でいえば水琴窟や鼓、といった単音に感じ入る様な繊細さを持っている。
反面グランドキャニオンの巨大な静けさややナイアガラの爆音の様なスケール感に欠けるところがある。

環境が違うから当り前のことだが、音楽にはこの二つの要素が必要で、新藤さんの音はそれに近かった。

最近では新藤アンプは寧ろ海外で注目されているというところが、何やらこんなところにも国情が反映されているようで悲しい。
65年の間に我々日本民族が失ったのは、こうした無形の心に拘わる感性ではなかったか。

Vitavox CN-191は見違えるような音で鳴り出した。

結構僕は満足していたが、新藤さんはVitavox CN-191の欠陥を二つばかり挙げ、これだけは直しておこうという事になった。

中高音用S-2ドライバーの裏蓋がプラスティックなので此処で音が死んでいる、従ってこれをステンの削り出しで造り直す。ネットワークがチャチでここでも音が死んでいるのでしっかりしたものに造り直す。という2点だった。

特性のコイルとオイルコンデンサーを使って造り直し、この2か所の改良で夢の様な音に変身した。

序にスピーカーの内部配線も良質の物に換えた。
これで僕は充分満足だった。有難うを僕は連発したが、まだあった。

これはスピーカーの欠陥ではなく、我家の普請の問題だった。
このスピーカーは部屋のコーナーに嵌めこむように造られていて、裏から見るとだから骨組みだけでがらんどうである。
従って壁が低音ホーンの一部を代用するように出来ているので、理想的な低音を出すには壁がしっかりしている必要がある。
我家は2×4の安普請だから、建てるときに気を使って壁に木の板を張り付けていたが充分ではないとのことで、裏蓋を付ける事になった。
これで低音はぐっと締りが付いて、音全体のバランスがぴったりとれた。
序にウーハーを外し、エッジに何やら塗り、乾くとこれで孫の代までエッジがへ垂れることは無いという。

Vitavox CN-191に施した改良は以上である。
おそらくこれでVitavox CN-191コーナーホーンの持つ可能性の殆ど全てを引き出すことに成功したと僕は思っている。
新藤さんは何も言わなかったが、おそらく同様に思っていることだろう。それ以降スピーカーについては発言が無い。

これをRA1474124Dで鳴らし、プレイヤーはGarrard 301のセンタスピンドルを改良してでかいターンテーブルを乗せ、アームにOrtofon RF297に厳選したSPU-Aをチューンアップした眼も眩むようなカートリッジ, という組み合わせが出来上がった。

それから35年僕はこのシステムで音楽を聴いた。
オーディオには幾つか頂点があるが、このシステムも一つの頂点だったと思っている。
当然、これ以上の音が存在することを僕は知っているが、果たして家庭に持ち込むに相応しいかどうか聴いてみて疑問を感じたことがあった。

ウェスタン15Aホーンである。

某所で聴いたがこれは凄かった。
ピアノがピアノよりピアノらしかった。もう桁違いで比較対象の問題ではなかった。
15A ホーンは御承知の通り劇場や映画館用であり、客席は20~50メートル以上離れたところにあり、且つ天井はビルの数階分の高さがあることを想定して、観客 に如何に心地よくしかも巨大なスケール感を味あわせるかという事がコンセプトだったろうから桁違いは寧ろ当然の性能と云ってよいが、それをこの時は距離約 4メートル程、天井高2.5メートル程の所で聴いたのだから、それは腰も抜けよう凄まじさだった。


この時ハスキルは正しく男だった。「げー」と僕はのけ反った。僕の大好きなハスキルが。
家に帰っていそいそと僕は同じレコードをVitavox CN-191で聴いた。

紛れもなくハスキル はエレガントな女流ピアニストだった。
ハスキルのモーツアルト、これ程無心で典雅な音楽は無い。Vitavox CN-191ならずともこれがちゃんと聴けるなら、スピーカーは何だっていい。
新藤ラボの音造りは要するにハスキルのピアノをハスキルのピアノで聴かせてくれるのである。




この人に出会わなかったら、僕は未だに迷い続けていただろう。

2010.08.05