2015年5月25日月曜日

我が、蹉跌のオーディオファイル #32
ネットワーク

今では死語だが、昔は男女の二人ずれを「アベック」と云った。

そのアベックに、職質を掛けたりするのは、多分に警察のやっかみだと若い頃思ったことがある。女の顔に懐中電灯を当てたりするのは、明らかに興味半分の嫌がらせであったろうが、まあ、こんなのは笑って済まされる話である。

警察が、通りすがりの人物に本気で職務質問をする基準は、その人物の全体のバランスに何か突飛な不自然さを見た時だという。

例えば、ばっちり正装しているのにズックを履いている、とか、よれよれの普段着なのに靴だけエナメルのピッカピカを履いている、とか、背広にネクタイなのに ズボンを履いていないとか、袴を履いているだとか、そういうバランスの悪さに不審の目を向けるのだそうだ。しかも、ほんの僅かなアンバランスにも気付くら しいから、そこはやはり職業というものなのだろう。

経営だって、バランスシートの上に、近頃流行りの偽装でなくて、ちゃんと乗っているか否かでその健全性が知れようというものだ。

若者の精神に安定を欠くところが多いのも、成長期のホルモンのアンバランスに拠るところ大だろうと思うが、どうあれ、世の中全て、バランスが欠けた時に、様々な不具合が生じるものである。

オーディオも然りであると、今まで散々に云ってきた事も間違いではない筈だ。


レコード再生に於いて、その音質を決定するものは、無論、各機器の性能に負うところだが、針先からスピーカーに至るまでの機器の全てが、同等のレベルの物で あるか否かといった、各機器間の性能のバランス、更に各機器の中身、使われている部品の品質のバランスにあると云って、やはり過言でなかろうと思う。

レコード再生は、云うまでも無く、超アナログの世界である。

針は、当初、竹だの鉄だのといった素材だったものが石に換わっても、レコードに刻まれた音溝を針でなぞって音を拾うという方法は、変わり様の無いまま今日を迎えている。

レザーで音溝をなぞるという、画期的ながら音に艶も色気もない、無機質な音の機械があるにはあるが、未だ研究の段階を越えていないと思う。

そして、アナログ中のアナログ、スピーカーは、ベルの電話の発明にその歴史が始まるが、その発明から137年間、各種の研究も虚しく、当初の原理、原型を殆ど変えようのないまま今日を迎えている。

針で音を拾う段階から、それを電気信号に変え、その電気信号を電力にして、スピーカーという原始的な機器に伝送し、振動板を振動させて、文字通り音速で超アナログ機器(?)耳の鼓膜を振動させ、脳に、それを音として感知させる。

そこで始めて、レコードに刻まれた音溝が、音声として、僕等の感性に何事かを訴えるのである。

だから、其の音の連続が、美しいか否かを巡って、オーディオマニアはそれを恰も人生の一大事として一喜一憂して来たのであって、感性を左右するのだから、多寡が音の事とは云え、疎かには出来ないで来たのである。

音が上手く出ないときの気分というのは全く不快なものだから、ややもするとそれを翌日まで引き摺り、仕事上の思わぬ失敗につながる事だってあり得る。

感性のない人にとっては、音は単なる音以外ではない筈だから、美しいも穢いも無いので「気分の優れないのは、昨日の音の所為なのだ」などと同僚に言い訳したって通じる話ではない。「あの野郎、おかしいのじゃあねえか」と、煙たがられるのが落ちである。
劣化した音声が、人生を一歩一歩踏み誤ってゆく遠因になることだって、だから無いとは言えないのだ。

音マニアにとって、それ程に重要な「美音」、それは、僅か一ミル前後の針先から、アンプ、スピーカーに至るまでの全ての機器の、微妙なバランスの上に成り立っている。

その、各機器の、全体のバランスが僅かでも狂うと、どうしても良い音が出ないから、しょうが無くて色々と機器を買い替えてみるものの、うまく行かない。

オーディオマニアなら、ほぼ例外なくこうしたジレンマを経験している事だろう。
無論、僕も経験した。

振り返ってみると、それを最も惑わすものが、メーカーの宣伝文句であるのは言を俟たない。実に旨い事を言う。おれおれ詐欺の様なもので、解っていてもついひっかかる。
それをまた、評論家が提灯を持って周りから煽りたてるので、ついうっかり銀行に振込んでしまう。

おれおれ詐欺と違うところは、若いほど引っかかり易く、ジジは引っかかり難いというところかもしれない。

メーカー製で、ほぼ例外なく、最も品質の疑わしいのは「スピーカーネットワーク」である。これが、音を惑わす最大のネックだと言っても過言ではなかろう。

これは、通常スピーカーボックスの中にあって、見えないし、ネットワークとして単体で売られているケースは少なく、スピーカーの付属品或いは一部として組み 込まれており、スピーカーと一体のものとして僕等の観念の中にあるから、それが見落とす原因の一つであるかもしれない。

解り切った事だが、ネットワークは低音・中音・高音其々のスピーカーを一つのスピーカーとして繋ぐ、その繋ぎ目、「かすがい」だから、単体のスピーカーユニットを生かすも殺すも、実はネットワークとスピーカーボックスの性能に掛っている。

逆に言うと、どんなに優秀なスピーカーユニットも、この二つの性能が悪ければ、まず良い音が出る事は無いと云い切る事が出来る。

例え1000万円のスピーカーでも例外ではない。



ヴァイタボックス(Vitavox)コーナーホーンのネットワークの品質が酷い物だった事を以前申し上げたことがある。

オリジナルのネットワークの品質は、全く、語るに落ちる粗悪な部品が使われている。

最高級のスピーカーだというのに、よくもこんな粗末なものを使ってくれたものだと、呆れてものも言えなかった代物である。

スピーカー及びエンクロージャーのレベルと比較してみると、そのバランスの悪さは歴然としており、スポーツカーに軽自動車のミッションを使っているに等しい代物だと言っておこう。

が、これは当然ながら、ヴァイタボックスに限った事ではなくて、昔から現在に至るまで、殆ど全てのスピーカーに共通する欠陥、しかも、全オーディオ機器の中で見落とされた最大の欠陥であり、アルテックやJBLなどの品質も当然ながら例外ではない。

JBLがアルテックなどと同様、WEの血筋である事は御承知の通りで、だから、本来とても良い音のスピーカーであるにもかかわらず、4343や4350に代表されるあの穢い音はどうした事か、以前から不思議でならなかった。

また、それ以前のパラゴン、オリンパス等も、どうにも納得出来ない音だった。

オリンパスの箱の化粧違いの「サブリン」に、随分と手を入れた事が有ったが、どうやっても旨く鳴らなかった事が有って、基本的にJBLは音が穢いのだろうと業を煮やし、怒りを込めて、こいつを売り払った事を昨日の様に覚えている。
当時の評論家諸氏には申し訳ないが、不思議な感性で物を申されるものだと、JBLへの幾多の賞賛に不信感をつのらせたものだった。この感想は今でも変わらないが、JBLに対する評価はしかし、ここにきてがらりと変わった。

JBLの血統は、正しくWEであり、「本当は、WEを上回る程の実力を持っていた」この事をお話ししたい。

曲者はやはりネットワークだったのである。

しかし当時、ネットワークは、従来の抵抗とコンデンサーの組み合わせによるものでしか対応できなかった。これはやむを得ない事であり、敢えてメーカーの責任を問うならば、その抵抗とコンデンサーの品質を落としたところにあると云えるだろう。

ヴァイタボックス然り、JBL然り、アルテック然りである。

ネットワークは、各スピーカー間を、ただ繋ぎさえすればよいというものではないことを、今ではもう誰でも知っていると思うが、では、どうするのかとなると、結構難しい。
ちゃんと作れば嵩張るし、ネットワークそのものが音を出すわけではないから金を掛けたくないし。

品質を上げると云っても、ではどう上げるのか。使う抵抗とコンデンサーの品質に付いては、以前申し上げた事があるが、それを繰り返すのではなく、今回は全く違う発想によるネットワークの事を申し上げようと思う。

ここから先は、Venetor Soundの試作システムを聴かせて貰った時の話である。



視聴用のスピーカーは、今お話しした通り嫌な思いをしたJBLだったから、期待はしなかった。しかもパラゴン、オリンパス当時の物より明らかに品質が劣ると思っていた「4343」の上に何故か「2440」のホーンが載ったものだった。

どうにも首を傾げたくなる光景である。

しかし、Venetor Soundのやる事に定石は無いから、所謂サプライズが期待できるのかもしれないと、淡い期待も無いではなかったが、繰り返す、何と言っても嫌いな、もう一つ突っ込むなら眼の前にあるスピーカーは「唾棄すべきJBL」である。

不審を隠せず、根が子供っぽい性格だから「4343ねえ。それにこのホーンですかい」と思わず口を突いて出てしまった。


すると「JBLオリジナルのネットワークは取り外した」との回答。


マルチチャンネルでもやるのかと思ったがチャンネル・デバイダーは見当たらない、「チャンネル・デイダーは何処にあるの」と聞いてみると、見慣れない黒い箱を示し
これパソコンです」との言、不信感は倍増である。


パソコンが4WAYのチャンネル・デバイダーとは吃驚、ところが社長、余裕でニコニコ「そのとうりです」、

続けて社長は、「ご存知のとうり、ネットワークもチャンデバもコイルとコンデンサーで周波数帯分割している、チャンネル数が増えれば増えるほど、音の通る周波数分割用のフィルターが増える、コントロール・AMPより良い素材のチャンデバなぞありえない」と力説。



「このパソコンのソフトは凄いですよ、評論家より造詣の深いIさんでも全部説明すると頭の中がパニクルからスピーカに関係することから説明する」と社長さん、 僕の事なら、基より電子関係の知識はゼロだから、逆にパニックにはなり様が無くて、ひたすら、音が良いか悪いか、感覚でしかものが言えない。評論家のよう な知識は持っていないし、持ちたいとも思わない。

僕はただ、聴いて心地よければそれで良いので、他に要求するものは何もないのである。


兎も角、先入観を一時止めて「聞いてみたい」とはどんな場合も思うので、それを察知してか早速パソコンを立ち上げてくれた。

画面を見るとWindows8の画面、W8くらいは知っているがもうアプリを作ってるとは、暫く音沙汰が無かったのはどうやらこの開発に余念が無かったと見て間違いなかろう。

今は人間国宝になっている山本邦山の銀界を出して鳴らしてくれた、出てきた音は、以前聞いたどのJBLの音でもない、横須賀で聴いたWEも凄かったが、驚いた事に、このWEとは次元を異にする、澄みきった音だ。

邦山の次は何と美空ひばりだった。大好きな歌手ながら、美空ひばりを普段聴く事は無い。社長は僕をからかったのかと思ったがそうではなかった。


美空ひばりの耳はクロノメーターよりも正確にテンポを捉え、ほんの僅かな音程の狂いも聴き分けたらしく、それを的確に指摘されるので、伴奏は極度の緊張を強 いられたと聞くから、どうやらそうした聴覚の限界の様な現場から出来上がったレコードから何が聴き採れるかを、聴かせたかったのかもしれない。


ちょっ と表現に苦しむ。オーディオで生を追求する事は間違いだ。生の音がオーディオから出てくる道理は端から無い。そんな事はとっくに承知している積りだった が、生き生きと目の前で歌っているようなこの音に動揺が隠せず、生々しいという点では、僕の聴いた最も素晴らしいWEの音を凌駕していた。明らかにJBLの音と感じられるのは、ほんの僅かにTweterの音癖くらいのものだった。


テレビの声からは決して見えてこない、荒廃した戦後の闇市の光景が見え、そこに一点の光明を見出した、昭和のあの唄声が聴こえてくる。子供の頃の記憶が甦る。


本当のJBLの音が今鳴っているのかもしれないと、正直この時思った。


つまり、、当時の評論家を含めて、僕等は今迄誰一人、本当の
JBLの音を聞いてこなかったという事になるのではないか。

「アナログは無限、デジタルは有限、現代の技術で有限が無限に近くなる、でもMCカートリッジからの信号は特に微弱、MCヘッドホンAMP、イコライザー AMPが音質のすべてを決めている、Lineレベルまで増幅し、それをADCでデジタルにすればしめたものもうアナログに近い音質になる、デジタル化され た音源を4WAYの各々に設定されたチャンネルの帯域に毎にチャンデバのように分割する。分割されたデジタル音源をDACでアナログにしてパワーAMPに いれる。その音を今聞いてもらった」と、社長。

後で気がついたのだがLINexiaktでも同じ機能があるが価格は850万、Venetor Soundはまだ価格を決めてないようだ。

以下は社長の堤剛さんがある人にあてた手紙。

○○様


こちらこそご無沙汰しています。

現在ステレオ・イコライザーAMPの量産試作の最終調整をしております。

調整作業は自傷行為の連続です、VT-MPEQと同じ回路でステレオVT-STEQを作ったのですが、なんとなく表現力が弱いのが分かっていましたが、VT-MPEQを1台VT-MCTLを3台購入購入されたお客様のお宅でデモいたしましたら、鐘、シンバルの音の拡散スピードと広がりが狭いねー、VT-MCTLの70パーセント位だねと駄目だしを受けました.。

解像度はVT-MCTLと同じ、新藤ラボのイコライザーよりは断然いい が、そんな批評を頂いた結果をエンジニアーに伝えたところ同じ回路なのにそんなはずはないとの一点張り。

私なりにお客様の70パーセントをヒントに推理したらナーンダ分かった出力のFETアンプは同数、入力アンプは倍、バッテリーは同数ならばバッテリーを2倍にしたら見事解決VT-STEQVT-MPEQを超えまし たやっと発売できそうです。

私たちはコンピュータのSI屋なのでお見せしたとうり、MCのHEAD・AMPからPCへの記録再生、NET・WORKまでの音楽を楽しむためのワーク・フローの提供を考えています。

当社はLINNのようにお金持ちではありませんし、善良なリスナーから身包み剥ぐような価格設定してお金儲けにいそしめるような環境で育っておりません、ようは不器用なだけかもしれません。

現在パソコン用のアナログ電源を開発しています。スイチング電源は音には良くなく、ほとんどが中国製も気に入りません。

LINNのことですが、PCの性能が勝手にガンガン上がるので、LINNといえども専用のデジタルプロセッシングの開発をし続ければオーデイオのガラパゴスになるの は必定と思いますが、LINもさるものプロセッシング用の基盤は台湾製の安い基盤をつかい数百万の価格設定で儲けまくっています。

Venetor Soundは年内までに8WAYのデジタル・ネットワークを構築できるシステム・ソリューションを開発しています。

レコードの曲分割自動ファイル生成、レコード針によるスクラッチノイズのギャザリングと除去、ハムノイズの除去などの開発をしています。

一連のワークフローが完成いたしましたらお見せいたします。

VT-STEQがお渡しできるようになったらご通知いたしますので宜しくお願いいたします。



当り前だが、ちゃんとお断わりして掲載している。原文のままである。

さて、どんな製品になって、どの位の価格で登場してくるだろうか。
残念な事が一つある。僕のスピーカーはフルレンジである。

こうなったら、一つ、JBLでも買おうか。


2014.06.26

我が、蹉跌のオーディオファイル #31
続EQアンプ

前回のパスコンの話を、この回路を教えてくれた某氏に云ったら、案の定笑われた。

「それは駄目なんだ。パスコンを付けると高音が出なくなる」と言うのである。居合わせたマニアの親父某は何も言わなかったが、横で若干嘲笑気味の薄笑いを浮かべている。
考えるまでも無く、理論的にはこちらが間違っているに決まっている。天下のアンペックスが、こんな初歩的な間違いを犯すはずは無いのである。

が、そんな事なら承知しているのだから、正解を指摘されたからと言って僕の意見は変わらない。
パスコンを付けないと、弦楽器(特にヴァイオリン)が綺麗に聴こえない。

高音が出過ぎるのか、飴色の優美な木の胴と4本の弦が織りなす、あの美音がちっとも聞こえてこず、錆びた鉄の弦を鑢で擦った様な音、とまで言うのは酷過ぎるにしても、ややもするとそれに近い鳴り方をして、決して美しい音とは云えないところが随所に聴こえる。

前回も言ったが、この回路は、寧ろジャズの様な音楽に打ってつけで、ドラムの表面を鉄箒で掻き廻す音など真に臨場感満点であり、パスコンを付けると、途端にこの雰囲気は掻き消える。
某氏は続けて「理論的に言うと、こうだ」と説明してくれたが、馬の耳に念仏である。元来、この手の理屈は理解不能であるし、あまり重要視していない。

「そう云ったって、高音が穢きゃ意味無かろう」と反論すると、某氏は「うーん」と唸って何も言わなかったが、横合いから「日本人は高音のキツイの嫌うからな」と親父某、今度はあからさまな嘲笑を浮かべている。
「日本人は・・・」と言うところが気に食わない。「日本人離れした・・・」とか、何かと西洋人と比べて日本人は如何か、といったもの云いをしたがる傾向があるが、戦後68年も経って、まだ青い眼コンプレックスが抜け切らんと見える。困ったものである。

どうあれ、音の感性の違いは線路みたいなもので何処まで行っても交わる事は無いので論争自体が不毛だから、この言は無視した。元より理論的にはこちらが間違っているのだから喧嘩にもならない。

親父(と言ったって、僕よりは大分若輩と見たが)の話は兎も角、この回路は一つの極みであるかもしれない。

確かにクラシックよりはジャズ向きの音だが、どういう訳か、事ピアノに関しては抜群の性能を発揮する。無論パスコンなしの原回路が、である。
今迄、こうやって色々とEQアンプを弄り回して来て、出た結論の一つは、弦が綺麗に出るとピアノが今ひとつ冴えず、ピアノが綺麗に出ると弦が荒れる。どうもピアノと弦の音は両極にあって、音の性質がかなり違うのではないかという事である。


この双方を理想的に再生できたEQアンプは、僕の知る限りRA1474が唯一である。
そして、ピアノ再生に限って言うなら、Ampex EQRA1474に匹敵する。
双方、異質な音ながら、甲乙つけがたい美音である。
余談ながら、RA1474の音は、TRIADのトランスHS-1とHS-52を使って初めて1474の音になる。規格が同じでも、他のトランスでは決して1474の音にはならない。

この事は、他のアンプにも云える事で、例えばマランツ7の回路でアンプを組んでも、マランツ7の音にはならない。このアンプには、御承知の通り、バンブルビーなどがふんだんに使われており、言うまでも無く、今ではバンブルビーの入手は困難であり、且つ入手できても容量抜けしていたり、まともな物が揃わないから、完璧にオリジナルの音を再現する事は、不可能と云っても良いだろう。

要するに、マランツ7にしてもマッキンC22にしても、発売当時各部に選定されていた部品は、伊達ではなくて、それで音を造っているのだから、類似品を選んだとしても、部品に違う物を使えば、音が変わってしまうのは至極当然な道理と言ってよい。
部品の規格数価が同じなら音は変わるまい、と思うのは、中央官庁の役人の発想と同じで、あくまでも、正しいのは理論上の事であって、現実とは程遠い事を、自作マニアなら知らぬ人はいないだろう。

前回も触れたが、だから修理に付いてもこれは同じ事が云えるので、類似の部品で修理しても元の音色は再現出来ない。市場にはしかし、マランツ7やマッキンC22の古物がけっこう出回っており、何れも法外な高値である。だが、それが売れている。

昔美人だった100歳婆さんを「どうしても」と嫁に貰うに等しいこうした純情には、やはり決死の覚悟を必要とするだろうと僕などは思うが、元よりこういう事は嗜好の問題でもあるから、他人がとやかく口を出すことではない。
思うのだが、100歳婆さんに効く「甦り」の妙薬があって、それを飲めば、華も恥じらう乙女に返り咲くとでもいうなら、年齢など問題ではなかろう。
だが、そんな妙薬があるとは聞いた事が無い。

どうでもいいことだが、もしあるのなら、婆さんにではなく自分が飲んでいる。

部品が音を決めるのなら、件のAmpex EQも、これは僕が勝手に部品を選んで組み立てたものだから、正確にオリジナルの音を再現したものではない。
従って、今誉め上げているこの音も、必然的に本物とは違う音を誉めている事になる。
が、僕はオリジナルの音を知らないから、組み上げたアンプの音さえよければ、その事はどうでも良い。

少々逆説的ながら、だからこそ、一度手にした、或いは耳にしたアンプを別の部品を使って再現しようとはせずに、初めて出会った回路で組み上げる事に楽しみを見出してきた。
そしてこういう事も云える。

このAmpex EQも、オリジナルの音を聴いて、その音が気に入ったのなら、値段次第ながら、第一にその物の入手を試みるのであって、自分で組もうなどとは思わなかっただろう。
回路が骨格で部品が血肉なら、自分で部品を選定したこのEQの半分は僕のEQだという事になる。誰にもこの音は出せない筈で、それで良いのだと思っている。

ピアノの美音につられて、結局このEQのパスコンは外して、オリジナル回路に戻した。
何も親父某の言に負けたわけではない。今も言ったように、ピアノの音が余りにも美しいので、ピアノ専用としただけの事で、弦の再生には弦用のEQを新たに組むことにしたまでである。
40年ほど前に、S氏から貰った回路図を引っ張り出し、慎重に部品を選び、無いものは海外からも取り寄せて組み上げた。

奇跡的に、これは一発で決まり、弦は何処までも繊細に、オーケストラは迫力満点に仕上がった。

抵抗は、当時S氏から入手していたアーレンブラッドレイ中心とした。
アーレンの抵抗はバラツキが多いので、通常は使わないのだが、音の良さでは比類が無い。
厳密に数価の正確を期そうとするなら、一つひとつテスターを当てて、確認してから使うのが良いのでそうしたが、若干のバラツキなどさしたる問題ではないから、出来るだけ近い値で左右を揃える、という程度である。基から±5%の抵抗だから、ここらは大らかに構えても問題なしとして、そういう正確さよりも、音質を重視した。事実、問題は何もなかった。

初段カップリングコンデンサーは、スプラグビタミンQのチューブタイプの物を使ったが、出力コンデンサーは同じビタミンQでも、缶タイプの物をつかった。

音質に付いて、どうやらこれが決定打となったようだ。

このコンデンサーはボディーアースになっているので、取り付けるには若干神経を使い、シャーシーから浮かせて取り付けねばならないが、同じビタミンQでもチューブタイプと比べると音の木目の細かさや力強さに雲泥の差がある。と、僕はそのように聴いた。

カップリングは、以前他のアンプで、ブラックビューティー、ブラックキャット、チューブタイプのビタミンQ、ウェストカップとビタミンQとの合成、普通の缶タイプのオイルコン、マスタード等々、色々試してみた結果から、今回缶タイプのビタミンQに賭けてみたのだが、それが大当たりだったようだ。
試に出力コンを、上記の全てのコンデンサーを、とっかえ、ひっかえ、付け換えて、聴き比べてみたが、やはりこれが最も適していた。初段も同じ物があれば使おうと思っている。

フィルムコンは何れもクリアーで綺麗な音だが、硬質の傾向があり、普通の缶タイプは、柔らかくなり過ぎるようだ。合成ものは、音は綺麗だが若干力不足のきらいがある。
と云っても、それは、僕の音の好みであって、他者は違うかもしれない。ブラックビューティーや普通の缶タイプ、或いは合成ものが良い、という事になるかもしれない。それはそれで良いのだ。
今云った事は、偶々僕の耳が、缶タイプのビタミンQに落着いた、とういうだけのことで、各人、好みの分かれるところだろう。

S氏の回路は、貰った当時一度組んでみた事があって、その時はさしたる感動も無く、というより当時はRA1474が手元にあったから、造ってみたものの比較する気にもならず、直ぐにばらして、シャーシーだけ屋根裏に仕舞っておいたのだが、今改めて組み上げてみて、当時の記憶とは全く別次元の音に仕上がったのがどういう事なのかよく解らない。
40年ほど前の音の記憶だから、細部がいい加減なのは仕方ないとしても、大筋はしっかり記憶している。全然違うのである。

S氏の造る音に、悪い音というのは無いから、当時も、それなりの音が出ていた記憶は確かにあるのだが、それにしても、別物の鳴り方をするのだから、おそらく当時の造り方がいい加減で、結線など間違えでもしていたのだろう。

が、兎も角こうしてAmpex EQとS氏回路のEQを使い分けることにしたが、Ampex EQをピアノ専用にした事もあって、このところS氏EQの使用頻度が高い。

今更めくようだが、S氏の音の技術は、世界でも指折りではないかと僕は思っている。序ながら、手持ちのカートリッジとの相性を言うと、Ampex EQにはSPU-Aが良く、S氏EQにはELACSTS322が合うようだ。

無論、これも相対的な比較であって、レコードに依っては逆の場合もある。幸いアームは2本付いているので、使い分けは楽だから適宜組み合わせを変えて使っている。
これが旨く壺にはまった時の美音は得も言われない。
もうEQアンプはこれでよい。打ち上げとしよう。

こうやってEQアンプの音に拘ったのは、このブログの始めの頃に申し上げた通り、PCへの収録を始めたからであり、その目的は、ジジイ化がいよいよ進んで動けなくなった時、PCなら指先一本で操作可能だからであり、当然、ダビングをするのだから音質は劣化するので、その劣化が聴き分けられないくらい良い音で録音しておこう、という魂胆からであった。


収録を始めたのは3年前からである。
収録にはヘッドホンが必要なので、ゼンハイザーの、中の下クラスのものを買ったが、これがまんざらでもないのに驚き、今迄見向きもしなかったヘッドホンへの関心が俄かに高まって、もう少しグレードの高いものを求めようかと近頃思案して、某氏との雑談の中でその事を言ったら「ヘッドホンアンプを使うと格段に音が良くなる」と言う。

「全く別物の音になる」とも言う。
ならば、今聴いている、中の下クラスのヘッドホンが、もしかしたら、中の上か、上に、旨く行ったら、特上になるかもしれない。そしてならば、ヘッドホンアンプを造って、更に特上のヘッドホンを使えば一体どこまで音質の向上が得られるのか、と、助平根性の期待は一気に上昇して、「これは造らねばならぬ」と結論に至った。

だから、これは造ってみようと思う。
やってみなければ解らぬ事だが、凝ったものではなく、単純な回路が良い様な気がする。
まったく次から次へと切りの無い話だが、次第に終点に近付いてきているようだ。
何年後か、ジジイがポツリと一人音楽を聴いている。
そうした風情も悪くは無かろう。

2013.03.03

我が、蹉跌のオーディオファイル #30
EQアンプ

年をとると時の過ぎるのを速く感じる。

子供の頃は学校に行くのが嫌で、嫌だと思っているとなかなか時が進まず何時までも嫌な気分が残ったものだ。いい年をしてからは会社に行くのが嫌で、一日の進むのがやけに遅く感じられたものだったが、そういう気分を味あわなくて済むようになって随分になる。

そうなると今度は時の過ぎるのが矢鱈に早く感じられる。

年が明けたと思っていたらもう2月である。この調子だと気が付いた時は棺桶に入っているかもしれない。棺桶の中から僕を覗きこむ悲喜こもごもの顔々を見てみたい。いい趣味ではないが何だか面白そうだ。

そういう死期の予感からか知らないが、去年は珍しく暑い時期を過ぎてもアンプ弄りが止まず、あっという間に時は過ぎて、一応の完成を見たと思ったアンペックス回路のEQの音に、年が明けた途端に音の高い所に不快を感じ始め、聴けば聴くほど不満が募り、翌2日には我慢が出来なくなっていた。

だから3日には半田鏝を持って部品をとっ替えひっ替え。

しかし、何処をどうやっても音質は改善されない。各コンデンサーをもう一度一からやり直し、オイルコン、フィルムコン、マイカコン、・・・。コンデンサーを変えるのだからその都度音は変わるが改善されたとは言い難い。

前回も申し上げたが、低音はしっかり出しながら且つ締めなければならず、高音は抜けるように爽やかでありたい。そして、どの辺りがフラットな音なのか、それを耳で探ってゆく。

録音時、プロデューサーが意図した音は当然僕らの知り様の無いところながら、そこの所を「音楽を聴く耳」で探ってゆく。
無論生の音が再現される事は間違ってもないから、レコードで聴く最も真っ当な音はこうではないかと思いながら探ってゆくのである。実に面倒くさい。

優秀なオーディオ機器は幾らでもあるのに何故その面倒をやるかを問われるなら、音に関する感性は人それぞれ違うからとしか言いようが無い。
無論市販のものでピタリとくればそれで一向構わぬことながら、ちょっと良いと思うと法外に高い。百万もするアンプなどバカバカしくて買う気にならないし、大体中身の見当は付くからいよいよ買う気にならない。

良き時代の名アンプなどは部品の替えが無くて今やちゃんと修理が出来ない。
マランツ♯7マッキンC22などが良い例である。バンブルビーなど殆どが容量抜けしていると思った方が良い。当時のアンプはこうした部品をたっぷり使って音を造っているから違う部品で修理しても往年の輝くような音は殆ど再現できないと思った方が良いだろう。


だから結局自分のアンプは自分で造るという仕儀となる。

「自分の好きな音で聴きたい」僕がアンプを弄る理由はこの一点に尽きるが、如何にせん素人である。しかも電気知識が無いのだから、最初にやる事は信頼出来るであろう回路を探すことからだ。回路など見たって何処がどうなっているのか解るわけではないのに、どうしてだろう、その訳の解らん回路を見ている内に感が働いて善し悪しの見当がつくから不思議である。回路図から音が聞こえてくるわけはないが、でも聞こえてくるのである。音が一個一個順番に部品を通り過ぎて行く時「こういう音になるのではないか」と想像力が働くのである。

理論の音ではなくてこういう経路でこういう部品を通るとこういう音になるかもしれないという、言ってみれば部品が造る音が聞こえるのかもしれない。甚だあやふやな感だが結構当たる。
アンペックスのEQ回路がそうだった。一目でこれは良いと確信、部品選びも迷うことなく組み上げて一応の正解を認識したのであった。そこから本当の音造りの思考錯誤が始まりもう一年半続いている。年が明けてもまだやっているという話である。

それ以前RA1474を長年聴いて来た事は何回か申し上げた。これ以上のEQアンプを僕は知らないが、一度手放したものを未練がましく追うような事はしたくないので色々模索した結果巡り合ったのがアンペックスの回路でとても気に入っている。
去年の内にこのEQは完成したと思っていたのでその時もこの回路について少し申し上げたが、完全という事は何に依らず有り得ない。

しかし、やるべき事はやり尽くした感もあったので、この回路は所詮、ロデオで頭を揺さぶられたカウボーイのガサツな神経で造られたものだったかと疑い、自分の感にも自信をなくしかけていたが、最初から気になっていた出力段のカソードを(原回路ではバイパスコンデンサーを使っていない)150μfの銀タンタルでバイパスして、思いのほか簡単に解決した。
恐らく設計上の数字はこれで狂ってしまって、だから理論的には間違っているのかもしれず、解る人が見れば馬鹿と笑われようが、そんな事は一向構わない。理論が正しくたって音が悪けりゃ糞より価値は下である。

兎も角、音はがらりと変わった。
物凄い違いだとだけ申し上げて置こう。

そしてアンプは理論を確認する為にあるのではなく、音を聴くためにあるのだと再認識したとも申し上げて置こう。

試に貴方のアンプのバイパスコンデンサーを外してみるとこの音の違いがどういうものか解るだろう。筆舌には尽くしがたいから一度やってみる事をお勧めする。
天下のアンペックス奴が設計ミスをしておったかと疑いたくなる程の音質の違いに開いた口が塞がらなかったがしかしこれはジャズを聴いた事で納得がいった。

この回路ではこうした音楽にはバイパスコンを使わない方がジャズらしく聞こえるのである。シャリツクとでも言っておこうか、ロックやウェスタンそれにスタンダードな音楽も同様、これが無い方がそれらしく聞こえるから不思議である。つまりこのEQの用途が違っていたのだろうと好意的に判断してみると成程パスコンは必要ない。だが僕は基本がクラシックにあるから、それならこのコンデンサーは必需品という事になる。これを付ける事でクラシックがちゃんとクラシックらしく聴こえるからである。

猛烈な違いというのはその差の事である。


アンプ弄りが止められなくなるのはこういう面白い事があるからだが、このバイパスコンにASCのフィルムコンを使うと劇的に音が良くなるらしいが僕はまだやっていない。一度やってみようとは思うが、銀タンタルを超える事は無いのではないかと推察する。何方かやった方が居られるだろうか。

別の回路ながら以前この箇所にスプラグの39Dだったか、極普通レベルの物を使って失敗した事があった。音がギスギスしてヴァイオリンがギーギー鳴るので呆れ、即座に外してリード線に磁石を近付けてみたら勢いよく吸い付いた。スプラグも堕ちたものだ。

こんな所をケチってはいけない(然るべきは銅か銀なのは周知の通り)中身など推して知るべしである。聞けば中国製なんだそうで、知っている人は如何なる箇所にも絶対使わないのだそうだ。成程と納得して引き出しの奥を引っ掻き廻していたら、今回使った銀タンタルが10個ばかり出て来て音の良さはその時も再確認していたから迷う事は無かった。

クラシック用のEQはこれで完成である。だからもう二度と手を加えない(とことん追求する事と同様止めどころを見極める事も肝腎だと思う)代わりに、ジャズ向けのEQを造る。

スティーブ・ジョブスではないが、妥協は許されない。ジャズ系なら当然使う部品も違ってしかるべき、当り前のことながらアンプ造りは音造りだからその思考錯誤にたっぷり時間が掛る、完成を急ぐ事は禁物である。

組み上げるという半田鏝を持つ作業は準備段階であって、組み上げてからが音造りの始まりである。だから肝腎なところは全て借り止めして置き、簡単に付け換えられるようにして置く。一度聴いて欣喜雀躍しても暫く聴いているうちにあらが見え始める。飽きるような音では駄目だから少しずつ直してゆく。

考えてみればこのEQに付けたバイパスコンを外して基に戻すだけで事は解決するのかもしれないが、部品を変えれば音が変わるのだから徹底的にやってみなければ気が済まない。
だが、良き時代のオーディオ部品は随分と品薄になってきた。真空管・コンデンサー・抵抗、皆然りである。そして簡単な市場原理ながら希少なものは値が上がる。

以前申し上げたがWEの部品など半腐りの物でも猛烈に高い。だからこういうものは使わない。テレフンケンの真空管なども法外に高値である。良い事は解っているがこういう物も避けて良質な部品を探すのもまた面白い。首尾よく探し当ててみると何故だろう「ざまーみろ」と快感もひとしおだから達成感も倍増する。心地良いのだから思わず笑顔にもなり健康にも良い。

年をとってから家内に柔らかい顔を見せる。これは大切なことだ。

高い部品が良い音を造るとは限らない。今は殆ど見る事も無くなったスティロールコンなども使いようでは真に具合が良いと聞くから今度試してみようと思っている。少なくなったとは云え、有る所にはまだまだ有って猛烈廉価であるところも結構だ。
ほんの一部だがこれを何処に使うと良いかは某氏に聴いているから知っている。しかし、半分は首を傾げながらやることだし、どう良いかも問題だからそれ言うのは結果が出てからにしよう。
国内で探しても無い部品は海外から取り寄せる。割高は承知だが結構面白い部品が見付かる事もある。

絶対に避けるべきは中国製の部品である。何に依らずこの国に決定的に欠如しているのは倫理である。コピー製品など特に注意。真空管などもっての外、猛烈汚い音を造るにはこれを使ったら良いという見本のようなものばかりだ。中国製造の一流メーカー品なども使いものにならない物が多いから要注意である。ブランド名など当てにならない。平気で滅茶苦茶なコピーをすることは何も僕などが言わなくても周知の事だ。

「安物買いの銭失い」というのは中国製品の代名詞だと思った方が良かろう。

スプラグの例もあるので買う前に何処で製造されたものかよく確かめる事が肝腎だ。
あやふやな返事が返ってきたら買わない事だ。急がば回れと云うからゆっくりと良い部品を探すのもまた楽しみだ。
さて、有り合わせの部品で一先ず組み上げてみることにしよう。
結果はまた何れ。

2013.02.05 

2015年5月19日火曜日

我が、蹉跌のオーディオファイル #29
VT-MCTL



ベネターサウンドのヘッドアンプ、VT-MCTLの事を書いてから一年ほど経つが、これに付いて書き足さずにいられなくなった。

毎年、どういう訳かくそ暑い夏になるとあれこれと音を弄りたくなる。どうして夏にそうなるのか分らない。我が家に居た犬ども、猫どもは毎年春になると目を吊り上げ充血させて何やら不審な行動に及んでいたが、それと同様の事なのか兎も角そうなるのであって、今年も例年通り7月に入った途端に、だからまなじりを決してイコライザーとプリの電源二つばかりに取っ付いた。


イコライザーの電源はチョーク直後の100μのコンデンサーを電解からオイルに替え、チョークには0.1μのこれもオイルコンデンサーを抱かせた。プリの電源は部品配置を全面手直ししただけで特に変更はしなかったが、チョークにやはり0.1μのオイルコンを抱かせた。

電源が音質に与える影響が極めて大きい事は皆様御承知の通りだが、100μのオイルコンは見事な効果があった。油だから音が滑らかになるのかその辺りの理屈は知らないけれども、音が細やかになり、綺麗になった。
ただ、流石に一個で100μ350Vをカバーするオイルコンは無いので、アメリカ製と思しき50μ400Vをパラで使った。

チョークに抱かせたコンデンサーは云うまでもなくリップル対策である。

平滑回路を何故いじるのかを敢えて言うなら要はリップルをどう取り除くかが課題であるに決まっている。

こうやって実際にあれこれとやってみると、電源に電池を使うという考え方が如何に正しいかが実感できる。「如何に綺麗な直流をアンプに送るか」という事が、今更めくが音の良否を決定する大きな要素である。

次にプリの抵抗を上質なものに替え、出力段のカップリングコンデンサーをチューブタイプのオイルコンから缶タイプの大型のオイルコンに替えた。ここは諸説あるところだろうが、数拾年前に買ったまま忘れていたものが物置の奥から出てきて、数価がぴったりだったから試にこれに替えてみたところ当りだったということで、偶然の産物でしかないが、電源のオイルコンの効果同様音が細やかになり綺麗になった。これもどうしてそうなるのか理屈は解らない。が、兎も角やってみたら大成功だったということである。部品に依って音が変わる典型例と云ってよいだろう。

モノ出力はトランス出力として独立回路を組込んだ。程度の良いプリ用出力トランスが何故か一個だけ残っていたので、ちょいとやってみたくなったからやっただけの事で云ってみれば双方とも廃物利用に近いが不思議な事にどちらも結果は上々だった。

何でもやってみる事だ。
そして更に、パワーアンプの再調整。
これだけやるのに2カ月掛った。
大量の汗が流れて18キロのダイエットに繋がった。平たく言えば気合を入れたという事である。
上記は勿論結果だけを書いているので、実際は電気知識ゼロのジジイが耳だけを頼りにやっている事である、実際はその何倍もの試行錯誤の結果だから実験研究と同様やたらに手間が掛ったのである。不器用という事も当然ある。

そして3カ月が経った今、件の100μオイルコンがこなれてきて角が取れ、組み上げた当初から更に音は繊細なものになり、且つ一段と明瞭で落着いた音になった。
レコードの音溝に刻まれた音を余すところなくフラットに再現する。
これがレコード再生の理想なのは解っているし、しかしながらフラットな音というのがなかなか面妖で、それに聴覚の個人差をプラスすると、結構この言葉には惑わされるところ大である事も解っている。

だが音の理想を言うならやはり「フラットな音」としか言いようが無い。
基より音を言葉で表現する事は出来ないと思っているが、
そのフラットな音が出ている様な気がする。
30年聴いて来たRA-1474の音はフラットな音という意味では恐らくほぼ完璧なアンプだろうと確信しているが、その1474を手放して以来やっと同質の音の背骨の様なものが得られたのではないかと思う。
1474の音は手放す前に主だったレコードをCDに録音しておいたので今でもこれと聴き比べる事が出来るのである。
因みに録音に使った当時のレコード再生機材は以下の通りである。

カートリッジ:SPU-A(新藤ラボチューニングのスワン印)
アーム:ortofon RF297
ターンテーブル:Garrard301
                    (新藤ラボ調整、ターンテーブルをでかくしたやつ)
アンプ:RA-1474

現在使用中の物とは無論アンプの回路は違うし、SPU-Aもスワン印ではないし、プレイヤーもアームも違うので音色に違いはあるが、所謂良い音には背骨の様な同質の芯が通っている。これは良質な音に共通の物で、その芯に乗って低音から高音までバランスが取れている音をフラットな音と云ってよいなら、今出ている音はフラットだと云う事が出来るように思った。

フラットな音。バランスが良いだけで芯の通っていない音は駄目だし、芯が通っていてもバランスが悪ければ当然ながら駄目だし、実にやっかいなものだが、レコードに刻まれた音は余程悪質な録音の物でない限り録音技術者は基本的にフラットと思われる音を録音している筈である。原音を音癖なく録音する事がベストという事だろう。

技術者の感覚によって個々に音色の違いはあっても根底に流れる音の芯とバランスは大概共通しており、その音を其の儘、つまり如何に音癖なく再現できるかがレコード再生のキーポイントなのは何も僕などが改まって云う事でもない。

この事はあらゆるスポーツで、其々に秀でた選手には共通した身のこなし方がある事にも通じているように思う。無論相撲と野球では身のこなし方が違うし、個人のセンスの違いによって色々な身のこなし方があるのは当然だが、一流選手の身のこなし方には体の重心の置き方に於いて共通したものがある。つ
まり体のバランスのとり方だが、どのスポーツでも優秀な選手にはある一定の共通した身のこなしが備わっている。

音も芯を外したものは所々綺麗な音が出ていても何処かふやけたような印象が残ったり或いは明朗過ぎて音がきつかったり、聴いていて落着かなくなるものだ。
「何か、何処かが違う」という印象を聴き手に与えるのである。
余談ながら、フラットな音を造るのに尤も面倒なのは低音を締める事だと思う。低音が出ないのは論外としても、出過ぎるとだらしのない音になり、それが高音に影響を与えて音全体をもこもこした、籠った様な音にしてしまう。だから出過ぎた低音を引っ込めるのではなく締めるのだが、ここがアンプ造りの一つの難所と云ってよいだろう。

低音の締り具合を確認するには、ジャズなどのコントラバスをつま弾く音を聴くと解りやすいかもしれない。この音がぴんと張って正に指でつま弾く感じが明瞭に聴こえてくるなら占めたものだ。ここが不明瞭でボンボン、ボワボワふやけた様な低音が矢鱈に低く響くようなら、ここは「低音が出ている」と喜ぶところではない。こ奴が音全体を擦り下げてしまう。当残ながら中高音を弱いものにし、音の輝きも消してしまう。これは聴けば分る事である。

この事に妥協は許されない。

回路さえ確かなものならば後は真空管、コンデンサーなど部品が大きく影響してくるから色々試して耳で確認してゆくと良いだろう。フラットと思しき音は、この段階では自分の耳で確かめるしか手はあるまい。測定器の価も大切だがそれは目安にしかならない。


さて、RA-1474の昇圧トランスは云わずと知れたTRIADHS-1である。
この音を嫌いだと云う人も居て当然ながらHS-1にも音癖のある事を証明しているが、ピカイチ素晴らしいトランスである事は万人の認めるところだろう。
このHS-1に相当するのがVT-MCTLである。MCトランスレスといった意味でトランスではなくヘッドアンプである。

レコード再生に使った機材が全て違うのだから単純な比較は出来ないし当然音色は違うけれども、少なくともMCカートリッジの昇圧というレベルではHS-1と同格かもしかしたら音癖が無い分それを上回る性能を持っているかもしれないと思いを新たにした。

スペック的な性能の事は僕には解らないし興味もないが、しっかり電源に電池を使っているからか何と言っても音が素晴らしいし、前述の音の芯をこのアンプが持っていなければ、後に続くアンプの音に芯の出ようが無い事は確かだろう。自画自賛するようだが今回の改良で我がアンペックス回路のEQが、音色の違いは当然ながら音のレベルでRA-1474と甲乙つけがたいものになったという事は,VT-MCTLの実力を結果的に実証する事にもなったと思うので、改めて其の優秀性に触れずにいられなくなった次第である。

皆様御承知の通り、オーディオは一つでも程度の悪い機材が入ると音はその機材のレベルで鳴ってしまう。この事は逆も真なりで良い音のオーディオは音の入り口から出口までの機材のバランスが取れているものだ。そうでなければ良い音にはならないから、その定石からも、VT-MCTLは最高レベルのヘッドアンプだと言い切っても良いと思う。
本気でそれを証明するなら、RA-1474を組み上げ,HS-1VT-MCTLを聴き比べてみれば分る事だが、もうその必要はあるまい。

手元にLAXE-03で再生・録音されたCDもあって、これも一聴すると必ずしも悪い音ではないのだが、AMPEX EQRA-1474と聞き比べてしまうと、随分と音が籠っていてサックスが霧笛のように聞こえる。それも風情だと云うなら何をかいわんやだが、フラットな音の再生というレベルで捉えるなら段違いと云ってよいだろう。悪口を言う気はないが、相撲で云う「顔じゃない」という隠語が当てはまる。

「三年経っても十年早い」というくらいの意味の言葉である。
それくらい音のレベルが違う。

VT-MCTLHS-1と全く同格の、これは強調して置きたいので繰り返すが「音癖が無い」分、或いは其れ以上のレベルにあることを今年のくそ暑い夏に実証する結果になったと思う。今更ながら実に素晴らしいヘッドアンプであると思う。

全く、アンプは買ったからといって簡単に手懐けられるようなものではない事も改めてよく分った。質の良い機材ほど扱いが難しい事をこの歳になって再認識もさせられた。
ちょっと癪だが、オーディオは奥が深くて面白い。

一歩前進した時の快感というのも堪えられないものだし、これじゃ何時まで経っても死ねんわ。

2012.10.21 

我が、蹉跌のオーディオファイル #28
欲しかったスピーカー


オーディオに興味を持ち始めてから約40年程経つが、当初最も欲しかったスピーカーにクラングフィルム、(後にシーメンスオイロダインがある。
引き出しを整理していたらシーメンス当時のカタログが出てきて、オイロダインのスペックが載っていた。

ちょっと驚くのは再生周波数で、何と50Hz~15,000Hzとあった。今時数万円のスピーカーだって人間の可聴範囲20Hz~20,000Hz付近をカバーしている。

そこで、スピーカーの再生周波数に付いて一寸調べてみたら、どうやらこういう事らしい。
スペックがどの様な数字であるかは兎も角、「実際にスピーカーから出る低音の60Hz以下は音というよりも風圧として肌で感じるもので、強烈なドラムやベースの唸りの様な低音は大概80Hz~100Hzくらいである」という。だから、60Hzが出れば通常僕らが聴いているオーディオの低音に何ら不足を感じるものではなく、まして50Hzが出るなら映画館などの大鉄桟を巨大な大砲の発射音や炸裂音で揺るがすに実は充分な低音が出る事をオイロダインのスペックから読み取る事が出来るのだそうだ。

そして高音は「4KHz~6KHz以上の純音の音色を判別する事は非常に難しく」この辺りで音程に対する判断は鈍って来るものらしい。

僕らが聴く「スピーカーの音(無論録音前の原音も)を決定づけるのは純音ではなく倍音であって、倍音は整数倍で膨らんで、大体13~14KHzほど先からは殆ど聴こえてこない」ものらしい。
だから、オイロダインの50Hz~15KHzという周波数帯域はこれらの条件を低音で10Hz、高音で1KHzばかり其々上回っており、従ってオイロダインで聴けない音は無いといってもよいという事になるらしい。

だから、2~3万ながら矢鱈に周波数帯域の優秀なスピーカーが量販店などに出回っているのは、要するに僕ら消費者が悪いという事になるようだ。つまり、食紅で真っ赤な蛸しか買わないとか、胡瓜や大根や長芋も真直ぐなものしか買わないとか、そうした次元と同じ事で、本質よりも見た目を重視する発想と同じ理屈になると考えてよいだろう。

生産者は売れなければ困るから、食紅が体に毒だろうが薬だろうが兎も角真赤っかに塗りたてちまう。流石に近頃では暮れの御徒町でもこんな蛸は滅多に見掛けないが、一昔前は真っ赤っかが常識だった。食の安全が叫ばれる現在でも、野菜などは相当にいかがわしい色付けや型の細工、或は遺伝子の組み換え、延命処置などをしてあるものが出回っているようだ。

そういうものでなければ、僕らが買わないから、言い換えるなら、音が良かろうが悪かろうが最低でも20Hz~20KHz出る事にしなければ買う人が居ないから、メーカーは無理してでもこういうものを造るし、測定の仕方で再生周波数表示などどうとでも云える事でもあるから、何が何でもこれ以下の数字は発表すまいとする。
基より、こんな数字は音質には何の係わりもない事で、それは曲った胡瓜も真っ直ぐな胡瓜も味や栄養価に変わりが無いどころか寧ろひん曲った胡瓜の方が(自然栽培)数段勝るというのと同じ事であるようだ。

従って周波数50Hz~15KHzのオイロダインのスペックは、実質的に巨大空間における再生音に何の不足もないということを示しているのだが、既に各メーカーの宣伝文句に毒されてしまっている僕らは、この数字に目を疑い「そんな程度のものか」と吃驚して「大したこと無い」と見下してしまう。
でも評判は最高だから、それを僕らが住むマッチ箱の中の更に小さな書斎で鳴らそうと思う人もいる。結果的に手にはしなかったが自分がそうだった。

マッチ箱の中で鳴らすオイロダイン、実際は劇場の体積分の部屋の体積程度の実力も出せないのではあるまいか。

第一天井高が違い過ぎる。一般的な家庭用のスピーカーだって100%の実力を発揮させるには本当は5メートル以上の天井高を必要とするが、我々の住むマッチ箱の天井高は多寡だか2m半程度が通常の高さである。
単なる大音響ならば出そうと思えば出せるのかもしれないが、音楽としてはとても聴けたものではあるまい。今更ながらこんなものを買わなくてよかったと再度カタログを見直してそう思った。オーディオ関係者の誰もが口をつぐんで決して口外しないのは部屋と音響の関係に付いてである事は知っておいた方が良いだろう。
本当の事を言ってしまうと、メーカーも評論家も雑誌も売れなくなって都合が悪いから口外しないのである。当時本気で購入を考えていた事が「阿呆なことだった」とはそれを知った今だから言うことが出来る。

「クラングフィルム」、ただの社名だそうだが何とも響きがいい。これだけで部屋中に心地よい音楽が広がってくるような錯覚すら覚える素敵な名称である。
僕はドイツの映画館で映画を見た事が無いから、オイロダインの本当の実力は知らない。
旧日劇には確かWEの巨大なホーンが入っていて、解体時に誰がかっぱらうかと話題になったらしいから、日劇で観劇した人達は知らぬ間にWEの劇場音を聴いていた事になるが、クラングフィルムを使っていた劇場や映画館となるとまず聴いた事がない。少なくとも僕は知らない。
そのオイロダインを今頃になって某所で聴いた。

まあ、一般家庭ではあまり望めない広さの部屋にデンと置かれたオイロダインは壮観であり、愛想もこそもない如何にもドイツ的な武骨さが却って、変な例えだがローライの写りの良さの様な、カメラの武骨さとは真逆の効果を期待させるのと同様、見ているだけで素晴らしい音が聞こえてくるような気さえしたものだ。

期待に胸を膨らませていざ鳴りだしたこの時の落胆はだから筆舌に尽くしがたい。
音はか細く、妙に高音ばかりがガラスを引っ掻くような音でキーキー鳴りだした。
おそらく原因はオイロダインそのものではなく他に有ったのだろう。配線間違いとか、プレイヤー周辺、或いは真空管・コンデンサー不良、等々、そして何よりも部屋。
それにしても酷かった。

ドイツスピーカーが如何に優れたものかは日常聴いているつもりだから、その遥か上位機種のオイロダインがこのていたらくである筈が無い。いや、このような音で許される筈が無いと思ったが、これはオイロダインが悪いのではなくて、映画館の大空間に向けて、且つスクリーンの後ろに置いて鳴らすように出来ているスピーカーを書斎に持ち込むこと自体が間違いだと云うべきなのだろう。
ここで聴いたか細い音を完璧主義のドイツ人が母国の映画館で鳴らして、経営者も観客もそれで満足する筈はなかろうとも思った。

あの若かった頃、首尾よく入手出来ていたら僕のオーディオ人生は悲惨なものに変わっていたことだろう。何時か本当のオイロダインの音を聴いてみたいが、何処で聴く事が出来るのか今のところ当てが無い。

一昔前FMファンという雑誌があった。その創刊号のグラビアに野口さんという方のオーディオルームが掲載されていたが、この人は桁違いな人でコンサートホール程の広さのオーディオルームに有名どころのスピーカーがごろごろしており、壁にオイロダインが嵌めこんであったと記憶している。もしかしたら此処で聴く事が出来るかもしれないと思うが、とっくに物故されたのでどうにもならない。

カタログでオイロダインには2m×2mという平面バッフルを指定しているがこのサイズはどう考えても「最低これだけ必要ですよ」ということであって、何に依らず無限大を理想とするのが平面バッフルならば、オイロダインのバッフルが2メートル四方で充分というものではないにまっている。
然るに、その最低限の寸法だって家庭に持ち込むにはかなりの無理がある事が容易に想像できる。バッフルを左右の隙間なくピッタリくっ付けて置いても横幅4メートル必要である。

勿論これでは何かと不便だから実際は最低でも5メートル必要になるし、天井高は通常2.3メートルと考えて、部屋に入れるだけなら何とかなるだろうが、これもぎりぎりでは何かと苦しいだろうから少し余裕を持たせるとして3メートルほどは必要になるだろう。そしてバッフルの後ろにも最低2mほどの空間が必要になるし、今度はスピーカーから何メートル離れたところで聴くかを考えなければならない。最低でも8mほど必要とすれば、部屋の縦方向は10メートル以上必要になるだろう。長手10メートル、横幅5メートル、天井高3メートルが、オイロダインの最低条件のバッフルを置くスペースとして必要という事になる。
そしてこれは最低条件だから此処までやったからといって満足に鳴ってくれる保証はないのである。

メーカーも発売元も売れるものなら売りたいから、家庭用として組み上げる最低限の規格を無理やり発表した事を恰も証明するように、某所の音は再度云うが酷い音だった。低音など出てこなかった。
オイロダインはドイツスピーカーの代表格だから、ドイツスピーカーは劃して、つまりこういう物を家庭に持ち込ませようとしたから評判を落とし、我が国で普及しなかったのではないかと思われる。これは実に残念なことだ。

シーメンスにはコアキシャルという25センチウーハーの同軸上に9センチツイーターを装備した小劇場用のスピーカーがあるがこれを1メートル四方の平面バッフルに付けたものも他所で聴いた事があるが、オイロダイン同様Ⅰメートル四方のバッフルでは音にならないのだろう、これも酷いものだった。
カタログにはもう一つスタジオモニターの「オイロフォン」とかいうスピーカーも載っていた。
W460,H1050,D310、2WEY,7スピーカー、アンプ内蔵密閉箱。
中高音は口径の記載はないが8㎝ほどの物を拡散方向を変えて4個、低域用も口径の記載はないが20センチ程のコーンスピーカーを3個、という構成である。
「透明な音質は苛酷なまでに音源の判断を可能にします」とあるから、音という音は細大漏らさず再現しますよ、と云っているわけで、だからこそアンプ内蔵なのかと推察するが、「高域、低域共3db、6ステップの調整が可能」とあるし、「壁面に接近して使用できます」とあるから、敢えて業務用のスピーカーを家庭に持ち込もうというなら、大空間を要しないスタジオモニターの此方の方が扱いやすいかもしれない。尤も今でも発売しているかどうかは知らないが、カタログに記載されているくらいだから日本の何処かに存在するものと思われるので、何方か探してみられては如何だろう。

ヴァイオリンを弾く友人T君はELACの何とかいうスピーカーを使っているが素晴らしいとべた誉めである。僕は聴いていないから何とも言えないが、ELACSTS322というMMカートリッジを愛用しているので、同様の音造りであればべた誉めも当然かと推察する。ドイツの音造りにはイギリス、アメリカとはまた違った如何にもドイツらしい堅めの哲学の様なものを感じさせる。

WEに代表され、JBLやアルテックで一般化したアメリカスピーカーも僕らを魅了するに充分な魅力を持っているが、イギリスのタンノイやヴァイタボックスは音の品性に於いて遥かにアメリカ系を上回る。全てそうだという訳ではないが、概してアメリカ系のスピーカーはジャズ、ロック系の音楽に適しており、其れ程の品性を必要としないのは云ってみればお国柄かもしれない。

どうあれ、ドイツスピーカーの胸を張ったようながっちりした、且つ繊細な音造りの魅力が正しく紹介されていない事は、オーディオ大国日本として画竜点睛を欠くと云うべきだろう。

4、5年前、捨てられていたラジオから外したような、ボロボロのドイツスピーカーがネットオークションなどで出回ったが、こうした事を積み重ねた結果がドイツスピーカーの評判を落としてしまったのではあるまいか。あの手の8㎝ほどのスピーカーはおそらくラジオから外したものと推察され、もしそうなら所詮人の声さえ満足に聴く事が出来れば事足りるので、其れなりの性能にしか造られていないだろう。それを50円か100円か或いは1000円か知らないが塵の山から安く拾って来て、オーケストラを鳴らし「フィールドスピーカーで御座い。付いては20万円頂きます。此方は上等のテレフンケンなので100万円頂きます」、これでは評判が落ちるのも無理はない。

スピーカーで一番難しいのは箱だという事は今更めく話で、とうに皆様御承知の通りである。
ただ造るだけなら大工仕事でも出来るが、ユニットの実力を実力通りに鳴らす事はそう簡単に出来ることではない。
指定の寸法で造ったから音になるかといっても、まずまともな音になった例を僕は知らない。無論素人仕事でも偶然の大当たりが無いとは言えないが、エンクロージャーの自作ばかりは決してお勧めできるものではない。

尤も、どう造ったって、音は出るに決まっているので、願望から僕らはつい錯覚する、出来たてのほやほやの時は「なんて良い音だ」と思いたいのである。
そして、JBLアルテックのユニットを使っているんだから良い音に決まっているというブランドに対する先入観がまた僕らの耳を錯覚させる。

回路図通りに組み上げれば一応回路図通りの音が出るアンプなどとはわけが違って(これだって部品配置や配線方法等で俄然音は違ってくるが)目に見えない空気の振動に関する計算と現実の音の間には大きなギャップがあるようだ。
だが逆の事もあるだろう、コーラルのスピーカーユニットだって、箱を旨く造れば素晴らしい音に仕上がるかもしれない。今も云った通り偶然の産物が成功をおさめないとは云えないから、つい期待するし箱造りに嵌るのである。

この事は自作エンクロージャーに限った事ではなく、他社製造の箱つまり指定寸法に依る本職の仕事だってユニットがまともな音を出した例を聴いた事が無い。
まして、他社独自の設計によるエンクロージャーをや、である。

タンノイ然り、JBLアルテック然りオリジナルとの音質の差は歴然としている。
古くはヴァイタボックスのコーナーホーンに物凄い奴があった。大メーカーともあろうものがよくぞここまでやってくれたものだとほとほと愛想が尽きて、以来このメーカーの物は何によらず買った事が無い。こういう音造りを平気でやる音響メーカーを信用出来ないのである。指定寸法という触れ込みながら、どう造ったってここまで酷い音にはなるまいと思うが、それがちゃんとそうなっているのだから驚く。

件のラジオ用スピーカーも当然箱を作らねばならないが、素人仕事も本職仕事も含めてちゃんと音になった例があるんだろうか、甚だ疑わしい。

僕の知っている限りでは、自称スピーカーの専門家の造ったへんてこりんなバッフルなど随分杜撰でいい加減なものだった。言うまでもなく音は出ていたが音にはなっていなかった。
会社の大小を問わず、どういうものを造るかというメーカーのコンセプトは、要は経営の先見性に加えて教養とセンスとモラルを根本とする筈だから、これが無いメーカーは気楽なものである。何でも有りなのだ。要は「だからこのスピーカーは良いのですよ」という話を造ってしまえば良い。
僕らはだから自分の耳をしっかり信じて、良い悪いもさることながら、好きか嫌いかをしっかり耳で判断したら良いのだろう。JBLだから好きなのではなくて、眼をつぶって聞けば自分の好き嫌いは誰に教えてもらわずとも基よりはっきりしている筈だ。

その耳で是非ともちゃんと整備されたドイツスピーカーの音を聞いてみては如何だろう。
ただし、どうしてもオイロダインをというなら、閉館した映画館を買ってしまうのが早道だろうから相当の費用も必要になるに決まっている。だが、価値はあると思う。
勇者の出現を期待して、是非とも聴かせて頂きたいものだ。

         2012.09.06 

我が、蹉跌のオーディオファイル #27
真空管かトランジスタか


今更めくような話だが、もう随分前ライカかコンタックスか、要するにどちらが優れたカメラかを巡って大の大人が頭を沸騰させ、文字通り口角泡を飛ばして口汚くののしり合った何とも楽しい論争があった。

議論は尽きず、出る訳の無い結論は遂にというかやはり出ずに、デジカメの出現でフィルムカメラが衰退するという決定打を食らって、つい先日まで古老達が忘れかけた記憶を呼び起こして細々と論争を繰り返していたが、そうした光景も最近では殆ど見られなくなり、結局有耶無耶に終わってしまった。
議論そのものが不毛という以外になかったから、結論が出なかったのは当たり前だったにせよ、何とも愚かで楽しい論争だった。こういう愚かさが人生に味を付ける。
そして、こうした論争を冷ややかに俯瞰する人がいるのも人の世の風情というもので、全く愉快であった。

個人的な感想だが、カメラの姿、使いやすさではライカが良いと思ったし、写り、特に広角系はコンタックス、つまりツァイスのレンズが優れていたように思う。
一時ライカDⅡに通常では付ける事の出来ないツァイス・ビオゴン21ミリを加工して取り付け、使った事がある。金が必要で売ってしまったが、これ一台で普通の風景なら撮れない写真は無かった。素晴らしい出来栄えのカメラに仕上がっていたと思う。
要するに良いとこ採りをしたわけで、通や収集マニアから云わせれば言語道断の暴挙だったのかもしれないが、通がどう云おうと良いものは良いので、何もかもが純正でなければならぬと決めて掛るのは「なんでも鑑定団」に任せておけばよい。実用の世界では何でもありの良いとこ採りは大いに結構なことだと僕は思っている。写真は撮った写真が良くなければ意味がないから「カメラは写真を撮る道具に過ぎない」と言い切る人も居る。

そう聞くと悟り切ったようなもの云いが何とも味気無くて面白くない。

それを「オーディオは音楽を聴くための道具に過ぎない」と置き換えてみると,今度は味気ないばかりでなくて、色々工夫して高音質を目指し、泣き笑いを繰り返してきた人達にはある意味不愉快ですらあろうが、真実は突いている。
その昔、オーディオの世界にも真空管が良いか、論争にまでは発展しなかったもののライカ、コンタックス論争同様真空管かトランジスタかを巡って不毛なやり取りが一部にあった。当時のトランジスタ技術の未熟もあってか、大方の通は真空管に軍配を上げていたように記憶する。
新技術を否定する行為は、何やらその道に通じた権威的印象を他に与えるという効果も重宝されたのかもしれない。

僕は通ではないが、柄にもなく真空管の軟らかく優しい音の方が好きで今でも真空管アンプを使っている。
アンペックスWEの回路でイコライザーを組上げた事を数回前の駄文でご紹介した。

無論真空管である。

我ながらよい出来栄え、と云うのは間違いで、アンペックスWEが如何に優れた技術を持っていたかが実証出来たと云うのが正しいが、出来上がったイコライザーの自画自賛はイコールアンペックス、WEへの賞讃だから、間違ってはいないと確信しており、僕などが今更くどくど言うまでもなく、真空管の音は素晴らしい。
惜しむらくはもう少し合理的な部品配置と配線をし、もう少し工作技術が良ければ、更なる高音質を期待できたかもしれない。こういうところは素人の手に負えるものではないと思う。
また、球によって音が変わってゆく楽しさを味わえるのも真空管ならではの事で、トランジスタを変えて音の違いを楽しもうというのはちょっときつい。

そんなこんなで、40年来真空管を使ってきたところへ、VenetorSoundVT-MCTLというヘッドアンプを導入した話も以前お話しした事がある。
このヘッドアンプは明らかに昇圧トランスよりも僕の好みに合っていたので、その日の内に付け換えたことも合わせてお話した。その時触れているので細かい事は省くが、透き通った明快な音である。
トランスの音に対して、人には云えぬ密かな不満や悩みを持っている方は一度聴いてみる事をお勧めしたい。多分欲しいと思われることだろう。
音楽によってトランスと置き換えてみるのもまた一興というものである。
このヘッドアンプは真空管ではなくトランジスタを使用している。
見直したというか、多分に食わず嫌いの面が強かったトランジスタも使う箇所に依っては遥かに真空管を凌ぐことをMCTLは実証したと言って良いだろう。

ライカにツアイスを取り付けるくらいだから、良いものは無条件で採用する「結果良ければすべてよし」は信条でもあって何の抵抗も無かったのである。

この開発から数カ月して、彼等はモノーラルイコライザーアンプVT-MPEQを発表した。
音の傾向はMCTL同様、すっきり、明るく、明快な音である。
嬉しいのは、国際規格のRIAAとNABCOLOMBIAAESRCAとアメリカ系4種類のイコライザーカーブの切り替えが出来るのに加えて英デッカのFFRRが選択できる事である。
計6種の切り替えが出来る。




僕はクラシック主体だからFFRRは実にうれしい。
今迄RIAAで聴いていて、何処かくすんだような音で鳴っていた英デッカ盤が、霧が晴れた様な、まるで別物のレコードのように艶のある音を響かせた。今更ながら英国の音造りの品性と奥の深さを聴いたように思う。
カーブの違いなど実は耳を澄ましてよく聴かねば聴分けの難しいものだと思っていた。
偶々このレコードが大当たりだったのかは分からないが、こうまで違ってくるとは聊かビックリである。

聴いたレコードはデッカの黄色ラベルの10インチ盤、レコード番号LX-3083,バックハウスとクレメンスクラウスのベートーベンピアノ協奏曲2番である。ジャケットにもラベルにもでかでかとFFRRと耳のマークが印刷されており、要するにFFRRという録音技術で録音されたものである事が示されている。余談だがFFRRというのは本来再生カーブを示すものではなく録音技術の略称である。だから真逆のFFRRの再生カーブで再生するのがベストだという事になる。しかし「FFRRと印刷されていてもリマスター盤などはRIAAでカッティングされているレコードもある」と言う研究者もいる。
言に拠ると「それを正確に確認するにはマトリクス番号(レコードをプレスする鋳型の番号)を確認する必要がある。マトリクス番号はレコード内周の無音部分に(更にレーベルのレコード番号の上に何故か逆さに印刷されている)刻印されていて、デッカとロンドンに限っては、リマスター盤には番号の末尾にRの刻印がある。それはRIAAである」そうだ。
僕のレコードはDRL-1291-2Bだから紛れもなくFFRRで録音されカッティングされた英国デッカ盤ということになるのだろう。従ってFFRRの再生カーブで再生するのがベストだったわけで、上記の高音質が得られたことになる。

ステレオ時代に入るとデッカの録音技術はFFRRからFFSSに変更され、デッカ及びロンドンのステレオレコードのレーベルにはFFRR同様FFSSの印刷がある。ラベルの上部や右肩等に丸く紋章のように印刷されているのですぐ分かる。
デッカやロンドンはこのように録音技術だけは明示しているので、ある程度再生カーブの見当をつけることが出来るが、世界各国各社の幾多のモノーラル再生カーブに関しては各社実に曖昧であるらしく、ロールオフとターンオーバーとローリミットの3要素がバラバラに、しかも複雑に入り組み、高域はAESで低域はCOLOMBIAに近いというような録音が為されているものもあって、単純にこれは純粋なAES,或はNABと決められない要素も多々あるようだ。

それなら、録音技術者某の感覚で録音されたそのテープをカッティング技術者某の感覚でカッティングされプレスされたレコードのカーブがどの規格に近いか、という逆の発想で考えた方が分かりやすいのかもしれない。が、要するに雲を掴むような話である。

僕ら日本人は決め事を律儀に守ろうとするが、欧米諸国民はそうではなくて、特に音楽録音は芸術に関わる仕事だから尚更、会社の規格を正確に守っていたのでは質の高い仕事が出来なかっただろうと推察できるし、仮に規格を守ったとしても、原音に依ってカーブの微調整をしただろう事は寧ろ当然と云ってよいのだろう。
マトリクス番号にはそれを裏付けるような文字が刻印されているという。
DRL-1291-2BのBのことである。これが何を意味するかを調べた人も居て、どうやら録音技術者のイニシャルではないかとのことだから、もしそうなら音造りの大半を担う録音技術者の音楽的センスと教養がこの一文字に凝縮されている事になり、それが正しいなら所謂通には重要な文字に当たる事になる。
その文字から、あの技師の録音かと分かる人がどれほどいるかは知らない。余程の専門家でなければ分かるまいから、当然こうした刻印が消費者に向けたものでないことの検討はつく。一種の内部資料のような意味合いなのだろう。

レコードの音楽性と音質を決定するのは何なのかを言うなら、盤質(盤の素材)と正にこの録音及びカッティング技術者の音楽的教養とセンスに尽きるのだろうと常々思っていた。
どんな原音もそして録音技術も最終的には彼らが調整した音で録音されカッティングされる。
その技術者達がどの様な職人技を見せるのかがレコードの質と価値決定の勝負どころならば、今も言ったように様々な原音に対して、技術者としては決められたカーブだけに固執していて満足出来る筈はあるまいから、各メーカーの規定のカーブですら正確に守らなかったというのは充分に推察できることであり、寧ろ当然の事だったと言っても過言ではあるまい。
しかし、業界全体の事を考えるなら大筋の規格は統一しなければならない。という事も一方の論理であり、それもまた当然の成り行きだったろう。

が、こういう話もある。

他の研究者に拠れば「ステレオ時代のデッカはFFSSを最後まで貫いた」そうだから、ならばRIAAは無視していたことになり、そうならリマスター盤ばかりでなく「1955年頃以降デッカはRIAAに移行した」という前出の研究者の説は間違いだということになるのか。
どっちが正しいか僕には分からないが、以下の事は事実である。
所持している英ロンドンのLL 632/633の2枚組、エーリッヒ・クライバーとウィーンフィルの第9。箱にもレーベルにもでかでかとFFRRと耳の印刷があるが、一面のマトリクス番号はARL 1295-2D Rとあるから前者の説によればリマスター盤という事になる。
聴いた限りでは明らかにRIAAの再生が優れていた。

もう一つ、所持しているロンドン盤スタンレー・ブラックのポピュラーの2枚。一方にはマトリクス番号の末尾にRの刻印があり、一方には無い。盤質も明らかに前者が新しいから前者はリマスター盤後者は初期盤という事になるが、双方共ジャケットに「FFRRで録音された世界一優秀なクオリティーを持つレコードであるが、RIAAカーブで再生せよ」と記述があり、成程これも明らかにRIAAでの再生音が優れていた。

という事はFFRRでテープに録音し、RIAAでカッティングしたという事になるのだろう。そして、双方共ラベルにMade in Englandの印刷のあるアメリカ発売のロンドンレコードである。

デッカとロンドンのレコードで注意すべきは、FFRRFFSSの表示は飽くまでもFFRRFFSSという録音技術で録音されたという表示であって、必ずしも再生カーブを表すものではないという事になるのだろう。先にも云ったがこれらは録音技術の略称だから表示の間違いではないという事になる。
RIAAが国際規格になって以降のリマスター盤に関してはデッカに限らず初期盤とは再生カーブが違う可能性があるようだ。何れも要注意である。常識的には大概RIAAと考えるのが妥当なのだろう。(無論聴いてみなければ解らない話だが)どうあれ、表示されている録音技術と再生カーブを混同しないことである。

また、こういう事もある。

デッカはFFRRでもFFSSでもそれらで録音したレコードには必ず分かるところに表示しているのだが、「その表示の無いレコードがあって、それは何らかの理由でRIAAで録音されたものかもしれない」という説である。
しかし、FFRRより以前のオールドデッカの録音と言うのもあるらしいから、そういうものには当然何の表示も無いわけで、それがRIAAだとは思えない。
某世界的音響メーカーの資料によればSP時代のデッカが既にFFRRであったようであるし、某研究者に依れば1953年頃以前のデッカカーブをオールドデッカとするのが妥当らしく、その場合は高域をRIAA,低域をAESにすれば代替え出来そうだという事である。
どうにも解り難い。

が、更にこういう事もある。

無表示のデッカ盤を僕は持っているが、箱はアメリカのものである。二組持っておりどちらも同時代のレコードと思われる。
この二組を聴いた感じでは、一組はRIAAが良く、もう一組はFFRRが良かった。米デッカはRIAAだという説もあるが、デッカの鋳型を輸入してプレスしているものもあるというからいよいよ分からない。
僕の聴いた感じというのが錯覚だったかもしれない。

このレコードはゴールドラベルとやらいうもので、通常のデッカのラベルとはちょっとデザインが違う。察するにアメリカ録音であったかもしれない。では再生カーブはなにが正解なのか。
分らん.分らん。
更に、FFSSFFRRの名称を単に変更しただけのことだ、という説もある。ならばFFRRFFSSの違いはモノかステレオかの違いだけで録音技術そのものに変わりはないという事になる。その場合カッティングはどういうカーブでなされたのか。
諸説紛々である。奇怪と云う以外にない。

デッカ一つがこの有様である。しかもデッカは録音技術だけはきちんと表示しているからこれでも他よりも遥かに見当を付けやすい。
こんな次第だから、再生カーブに関する研究者が異口同音に出す結論が「最終的には耳で確認するしかない」というのはきっとそれが正解なのだろう。
だからという訳ではないが、僕も選んだカーブが正確であろうが無かろうが、自分の耳に心地よいカーブを選んで聴く事にした。
理想を言うなら、ロールオフとターンオーバーを独立させ無段階可変式にして一枚一枚聴きながら調整するというのが良いのかもしれない。
しかし、この場合耳に依って選択したカーブが録音時のカーブと一致するという保証は全く無い。ならば、各レコード会社の(全世界にかなりの数がある)データ一覧表を基にして、基本の数価を目盛りで押さえてから微調整してゆけば良いのかもしれないが、各社のデータそのものが上記のごとく曲者だから、本当のデータが揃うという確証はない。
確かな事がある。

RIAA以外のカーブで録音、カッティングされたレコードの再生は、RIAA以外の何れかのカーブで再生した方が良いに決まっているという事で、ちょっとくらい誤差があっても随分音の輪郭がはっきりしてくるし、音に艶が増してくる。
引っ込んでいた伴奏が俄かに明瞭さを増したり、熊手でドラムを引掻く音が鮮明になったりする。
先のDRL-1291-2Bばかりでなく、米コロンビア盤、レコード番号RL-3068,良き日のカラヤンとウィーンフィルのベートーベン5番とモーツアルト39番、はその名の通りコロンビアカーブでぴったり符合。RIAAで聴くのとは全く別物の鳴り様である。
細部まで明瞭であり、何よりも迫力が違う。RIAAだと何処か掠れたような音がしていて、長い間放ったらかしておいたレコードが見事に甦った。


この様にぴったり壺にはまった時の音はまったくこたえられないから、つまり、これ等再生カーブが符合したレコードは録音技術者・カッティング技術者が意図した音に極めて近いところに到達していることになるから、それを可能にするMPEQ一度聴いてしまうとSPやモノLPの再生には欠かせないアンプになる。
カーブの問題は知りさえしなければRIAA一つで充分だが、その違いを知ってしまうと間違い無くそれだけでは済まなくなる。
そしてモノを2台使えば当然ステレオで使える訳だから、某研究者がおっしゃる様に「ステレオ時代に入っても国際規格のRIAAはあまり守られなかった」というのが事実ならば、モノ2台でステレオとし、且つ6種類のカーブが選択可能な究極のステレオイコライザーアンプとなるわけで、ベネターサウンドの廻し者ではない事をお断わりした上で、こうした使い方も大いにお勧めしたいところである。

僕は実際に試してみたが、カーブの問題はさて置き、音の素晴らしさは抜群だった。
トランジスタ臭さが無いのも不思議である。評論家ではないから尤もらしいスペック的な解説は出来ないし、意味も無いので、一度貴方の耳で確かめてみる事をお勧めしたい。
寧ろ真空管派の方にお勧めしたいとも思う。
型を知った上で型を破る、殻を破ることから進歩が始まり新しい世界が開けてくることはオーディオも例外ではない。しかしその一歩が踏み出せないというのも人情だから、それも良く解る。しかし、一度聞いてみる事で知識と経験が増えることもまた確かであると思う。
それに、クラシックではこうした再生カーブが複雑に入り組んだモノ時代に名演奏が多い。
それをより良い音で聴く事が出来ると云うのは至福という以外にないが、ジャズやその他の音楽ではどうなのだろうか。ブルーノートなどはRIAAとはかなり違うカーブの様だが。ジャズはこのレーベルに名演奏が多いと聞いている。
今迄聴こえなかったかすかな伴奏音などが聴こえてくるかもしれないし、音場の雰囲気がより生々しく伝わってくるかもしれない。それは古いライカの描写にある空気感の様なものと言ってもよいのだろう。
このMPEQ,メーカーがトランジスタだと言っているのだからトランジスタなのは当り前で真空管ではない。しかし、今も言ったように、真空管かトランジスタかという比較レベルの音の差が聴き分けられない。

今までずっとプリアンプは使わずに、真空管イコライザーをメインアンプに直結して聴いてきた。MPEQにはVRが付いていないのでプリを通す事になるが、真空管イコライザーとの音質の差は無いように聴こえるのである。
或いは此方の耳が悪いのかもしれない。
だが、論争の結論だけはどうやらMPEQで出たようだ。
音さえ良ければどっちだって良いではないか。まぜこぜで使ったって一向構わない事ではないのか。

純正で半腐りのWE部品で半腐りの音を聴くよりも、ものによっては技術革新の著しい部品を使った音の方が良いかもしれないし、WEをやるなら、WEの回路を利用して高品質の部品で組上げる方が今や優れたものが出来ると僕は思う。腐っても鯛という事は理解できるが、半世紀前の古物を使って当時の音質を再現する事は極めて難しいだろうと思う。
オーディオは今やNETオーディオの時代に入っている。

どうしても真空管でなければと思うのはパワーアンプくらいのものではなかろうか。
こればかりは原理が発明されてから(125年前から)その原型を変えていない、或いは変えようの無い化石オーディオ機器「スピーカー」を駆動させるのが仕事のアンプだから、特に古いフィールドやアルニコのスピーカーにはどうしても「真空管アンプ」を必要とするのだろう。
オーディオで最も重要な部分がガリガリのアナログ機器であり続ける以上、アルニコを使っている僕として、真空管を切り離して考えることは現状では出来ない。
だが、先日某所で聞いた大型コンデンサースピーカー(ソニー製)の音はしかし、真空管では十分に鳴らないかもしれないという印象を受けた。

何事も一概に言い切ることは出来ない。適材適所ということだろう。
オーディオに於いて信ずるべきは、他人の百万言よりも唯一自分の耳のみである。
真空管が良いかトランジスタが良いかは「どちら」と軍配の上げられない話なのだろう。

自分が聴いて心地よい方を選べばよいのだと思う。

2012.07.12 

我が、蹉跌のオーディオファイル #26
続 レコードの塵

この一年間、毎日のようにせっせとレコードを磨いている。

いい年をして馬鹿みたいであるが、ノイズの無い音で一度録音してしまえば、本当の老後を楽しく過ごせそうな気がしてやっているのである。

尤も、本当の老後というのを何歳くらいから考えればよいのかよく解らない。長寿の伯父が居て、犬の散歩には出るし、塵も自分で捨てにゆく、矍鑠として97才である。

先日数年ぶりに訪問した折、確かに数年前より幾らか老けた感じが否めず、まあ、ここまでくれば、確かに老人と呼べるに相応しい風情を漂わせていたから、この辺りを本当の老後と考えてよさそうに思う。

無論そこまで生きていればの話で、そこらがどうなるかは解らないけれども、仮に生きたとして、さて、その歳でレコードを満足に掛けられるだろうかと改めて考えながら、この日一日叔父を観察して、レコードを掛けるというたったそれだけの事ながら、例えばレコードの端っこに正確に針を降ろすという手作業はかなり厳しくなるだろう事が判明した。

レコードに針を落とす時、手元が震えて狂い、変なところに針を落としてしまってピックアップを壊してしまう、といったミス、そしてそれに類するミスを連発する事だろうと見てとった。

だから、今やっているPCへのレコードの収録は間違っていないだろうと、一人納得した次第である。

PCならクリック個所を間違えたってそれでPCが壊れるような事はないし、レコードの掛け替えに一々席を立つ、という行動そのものが無くなることになる。この立ったり座ったりという動作が、老人にとってはけっこう危険を伴うという事もこの日改めてよく解った。

伯父は、娘が注意するのを聴かずに足を組んで腰掛けていたが、手洗いに立った瞬間にころりとひっくり返った。昔から咄嗟の判断の良い人だったから上手く壁にも凭れて事なきを得たが、これで足腰を骨折でもしようものならその日から寝たきりを余儀なくされていたかもしれない。足を組んでいると血の循環が悪くなって、超高齢者にはこういう事が儘起り得るのだそうだ。

「それ、ごらんなさい」と娘に叱られ、照れ臭そうにちらりと僕の顔を見たが、兎も角、転ぶという事は老人にとって最も危険な事だから、レコードの掛け替えなど、どうという事のない動作にも確実に老人への危険は潜んでいるし、その動作の頻度が増す事はイコール危険に遭遇する頻度が増す事だから、やはりかなりしんどい事だと目前の現実を見て再確認することにもなった。

だから、元気でいるうちにせっせとレコードを磨いて塵を取り除き、ノイズの無いよい音で収録しようという試みはやはり間違っていないと、この日二度も思いを新たにした次第で、いよいよ塵取り作業に熱も入ろうというものである。

小さな棚一つ分のレコードをこの一年で磨き上げて収録してきたが、それにしても、この作業はつまらない。

同じ作業を何回も繰り返す、そしてこの作業は負からゼロへ持ってゆくのが目的だから、作業そのものには何の生産性も無いというところでバカバカしさが倍増する。

「ああ、野麦峠」のような、当為に近い労働では無論なくて、自分から進んでやっている事ながら、乙女たちの哀歌も何処からか聴こえてきそうな切なさも伴う、単純で面白みの欠片もない作業である。

だが、レコードの収録にこの作業は欠かせない。
面倒がって少々のノイズならと其の儘録音してしまうと、必ず後悔する事になる。

録音ソフトなどに付属しているノイズリダクション機能は、メーカーが何と言おうと、確実に音質が劣化するから、基本的に使わない方が良い。(素人の手に負えるものではないとも云っておこう)少なくとも僕はどんなに条件の悪いレコードにもこの機能は使わないようにしている。旨く行ったと自信たっぷりな録音も、暫く時間をおいて聴き直してみると、随分と音がもやもやしている事に気づいて、結局レコードの塵取りからやり直すことになる。

一にも二にも、収録前にレコードの塵を取り除く、これにしかず、である。

だがこの作業、つまらないばかりか、思ったほどうまく行かない事が多い。

例えば、レイカのクリーナーでクリーニングする時、しつこい汚れにはクリーニング液をたっぷり使って強く拭き取る。ビスコ33という拭き取り様の紙は極めて優秀だから、クリーニング液で盤面が湿ってさえいればレコード盤に傷が付く事はまず無いので、ここはしっかり拭き取る。

そしてクリーニング後は充分に乾燥させてから針を降ろさないと、レコード盤、ピックアップ共に傷つける可能性大である。何でも計算上はあの小さい針先に1トン近い圧力が掛かっているというから、水分が残ったレコードに針を降ろす事は禁物だそうだ。おまけに盤面に残った水泡が新たなノイズの発生源になることもある。

だから、僕はクリーニング後必ず一晩乾かすことにしているが、それでも針を降ろした途端にパチパチと細かいノイズが出る事が頻繁にあって、こういう時は空で一回針を通すと2度目からノイズは急速に減少し、3回目には殆どのノイズが消え去るのだが、どうにも釈然としない。

この細かいノイズは何なのか。物よってはクリーニングして5回も針を通さねばきちんとノイズが消えないものもある。これでは針が持たないから、クリーニング用として安い針でやるのだが、問い合わせてみると通常は一発で決まるのだそうで、そうなら此方のやり方が間違っているか、今迄のレコードの保管状態が余程悪かったとしか考えられない。

中古レコードなら前所有者が如何なるクリーニングをしていたか、或いはしていなかったか、履歴が解らないから、一寸見綺麗でも信用は出来ない。

ニュースが一読しただけでは真実が見えないのと同様、中古レコードも外観だけでは履歴が解らない。以前某君の使ったクリーナーの残滓がこびり付いている事もある。

これがなかなかな曲者で、ただのゴミより余程質が悪く、取り除くのにけっこう苦労する。

自分のレコードも50年以上前に買ったレコードの手入れが如何なるものであったか、概略くらいは覚えているが、そもそも碌なクリーナーが無かった時代の事だから音溝にどういうものが詰っていても不思議はないのである。

問題は履歴のはっきりしているレコードに付いてである。きちんとクリーニングし、保管していたものに付いては自負もあるから、クリーニング後にノイズに悩まされるというのは納得がゆかないのである。

汚れがひどいレコードにはたっぷりとクリーニング液をかけ、新しいビスコ33でしっかり拭き取ると今も云ったが、それで納得行かなければ2度続けてクリーニングするようにしている。こびり付いていた黴なども目視の限り、全く見られないところまでクリーニングする。

にも拘わらず、数回針を通さねばノイズが消えないレコードがある。肝腎な事だが、しかし、4回か5回空針を通せば塵に依るノイズはほぼ完全に消えるのである。

中に諦めてしまったレコードがあって、10日ほど放ったらかして、試に掛けてみたらノイズが消えていたと云うのもあって、それも一枚や二枚ではないからいよいよ訳が解らない。

やけっぱちになって放り出して置くとノイズが消えているなどという事は、理論的にも納得がゆかないが、そうは云っても現実だから受け入れるしかない。まあ、こういう方法もあるのだと近頃はクリーニング法の一つに勘定している次第。再度云うがこれでノイズは消える。そして、一発で決まるレコードも当然ある。この違いは盤面を一見しただけでは見分けがつかない。

気紛れな小娘みたいで扱い難いことこの上ない。まあ、小娘ならそれも一興、面白がってもいられるが、レコードの塵取りなどという余計な作業はスムースに行ってくれないと、ただ不快なだけである。

僕のプレイヤーにはアームが2本付いているから、先に一本走らせておいて、追っかけ本番の針を降ろすように、だから通常していて、これで大概のレコードはOKである。(先行するカートリッジだが、ものに依って振動が本番のカートリッジにノイズとして伝わる事があるので、要注意)

無論釈然としないが、怒ってどうなるものでもないから習慣づけているものの、いったい何が悪くてこういう事になるのか解らない。

二本もアームを走らせねばノイズが消えないなどという事が正常である筈が無いよね。

前回紹介した    でもこの状況は変わらないから、きっと僕のやり方が悪いのだろうと思うが、どうやってもこういうレコードが頻繁に出てくる。

プレイヤーの置いてある場所に、夕方になると太陽の斜光線が射し込み、季節と時間で微妙にその角度を変える。斜光線は普段の風景とはちょっと趣が違って、今迄気づかなかった、思わぬ風景に出合うチャンスをくれる事がままあるが、僕のプレイヤーも射し込む斜光線の角度によってカートリッジに当たった光がレコード盤に反射して、赤みを帯びて実に綺麗に映る事がある。

そして、角度によってレコード盤の音溝が金色にきらきら輝く事もあって、カートリッジの赤とレコード盤の黒と音溝の金のコントラストがなかなかな風情を醸し出す瞬間がある。

これが実に美しい。

何でも物には見方があるものだと感心していて、でも、ちょっと気になって回転を止めてみて驚いた。音溝の中にナノ単位の細かい塵が天の川の様に無数に光っているのである。

それでいてノイズは出ていない。

この塵は電灯の光では殆ど見えないから、完璧にクリーニングされているものと僕らは錯覚するが、微小な塵は、どうやらそう簡単に取り切れるものではないらしい。

つまり、同じ塵でもノイズの発生源になるには一定の大きさと硬さが必要で、それ以下の塵ではノイズは発生しないか、しても聴こえない程の微小なノイズであるのかもしれない。塵は塵でもチンピラの塵まで気にする必要は無いということなのだろう。しかし、それでも病的に取り除きたいというなら、3~4回立て続けにクリーニングすれば取れてしまうのかもしれない。ここまでやれば完璧なんだろうけれど、極めて目視の難しい微小な塵はちょっとやそっとでは取り除けないものだということが、偶然ながら判明したのである。

兎も角、しつこく取れないノイズの発生源がやはり塵によるものらしいことがこれで分かった。

では何故一度針を通すとノイズが減少するのか、今度はそれが気になる。そして、3回4回針を通す度にノイズが減少してゆくというのが、どうにも分かり難い。

もしかしたら、クリーニング直後はこのナノクラスの塵がクリーニング液の水分で何個かくっ付いて、比較的大きな塵となって音溝に残って、それがノイズの発生源になって、だから、一度針を通すと、くっ付いていたナノクラスの塵を針が砕いて、この時塵は文字通り元のナノクラスの姿に戻り、ノイズは発生しなくなる。しつこく固まったままでいた塵も、度重なる針の来襲に耐えかね、遂に砕け散って、3回4回針を通す度にノイズは減少してゆき、遂にはノイズがほぼ完全に消え去る。
こいうメカニズムなのかもしれない。

こういう事があった。

クリーニング前も比較的きれいで、クリーニングの必要はないと思われた一枚。

それでもクリーニングして、外観は塵も黴も全く見なかったので安心して音を出したら、プツプツと小さなノイズが切れ目なく続き、そればかりか、レコード盤が擦り減って針との摩擦音が出た時の様なシュルシュルといったノイズが所々に発生する。外観とは裏腹に重症とみられた。もしレコードが擦り減っているのであればクリーニングで直る事はないから諦めるしかないが、そうとも思えなかったので、この時はプレイヤーを45回転にして2本のアームを同時に使って安針を通してみたところ、パチパチノイズは殆ど消えた。

だが、まだシュルシュルノイズが消えない。針先を見たら2本とも極小の塵が団子状にこびり付いたので納得し、同じ事を再度繰り返した。つまり、計4回空針を通した事になる。

本番の時も一本先行させるから、要は6回目の針が目出度く本番となるわけで、全くうんざりするが、これでシュルシュルノイズは消えたのである。

再度云うが、目視できるような大きな傷さえなければ、大概のレコードは斯くして甦るから、ちょっとやそっとのことで諦めず、特に、古い貴重な演奏のレコードを捨てる事は、宝を捨てるのに等しいから、この針クリーニングを試してみては如何だろう。

見えない塵、これが大敵なのである。

ならば、クリーニング液など使わずに最初から針クリーニングすれば良さそうなものだが、決してそうではなく、空針を通しても大きなごみは取り除けないからこれはクリーニング液でしっかり拭き取るしかないし、またしつこくこびり付いた塵の接着力を弱める効果は大だし、レコード盤を傷付けないで済むから、必須の事と思ってよいだろう。

ならばこんなことをせずに、最初からクリーニング液を使って3回4回クリーニングしても良いのかもしれないが、確実に音溝の全てをなぞってゆく針クリーニングも絶大な効力を発揮することを知っておいても損にはならないだろう。

しかし、それだけでは、10日ほどほったらかした後にノイズが消えるのがどうしてなのか、疑念は晴れない。だが、まあ、ここらはどうでもよい事だ。僕に限ってはノイズが消えさえすればよいし、発生しても要は聴こえなければ良いのである。

其処の所を一発で決めるほどの、つまり強力なクリーナーでは、今度はレコード盤を痛めるのかもしれない。

尤も、レイカや    は純水が基本らしいからそういう事はないのだろうが、どうあれ使用者としては、やはり一発で決まってくれるに越したことはないから、何とかならんものかと思う事しきりである。

物にもよろうが、いかれてしまったものを元に戻すのは、新しいものを造るより難しい事がある。
レコードにこびり付いた塵を取るという事も、そうした部類の事柄に属するのかもしれず、厄介な事この上ないが、上手く塵が取れて新品同様の素晴らしい音を聴かせてくれると少々の苦労など何の苦にもならないものだ。

だが繰り返そう、一発で決まって欲しい。
そうでないと時間がもったいない。

もう、後ろから勘定したほうが速いから、せっかちにもなろうというものである。

2012.06.05