2015年5月7日木曜日

我が、蹉跌のオーディオファイル #18
ハイレゾ音源とレコード



「神南署安積班」、
このドラマの原作は今野敏さんだが、彼の推理小説「緑の調査ファイル」の中に興味深い記述があるのでちょっと引用したい。

「・・・・。結果的に、信号化の過程で、不可聴域の音はカットされてしまう。二万ヘルツ以上の音は含まれていない」、

「アナログのレコードだと含まれているの?」、

「再生装置次第だけれど、実を言うと、CDよりも幅広い音源が含まれている。プロユースの最高の再生装置を使えば、不可聴域の音もちゃんと再現される」、

「どうしてそんな事が起きるの?」、

「デー タ化の限界。一秒間にサンプリングする回数をサンプリング回数といい、そのサンプルをデジタル化した値を量子化ビット数というんだけれど、この値が大きく なれば、それだけデータ量が増えてしまう。通常のCDだとサンプリング回数は、四四・一キロヘルツ。これだと、二万ヘルツ程度の音しか再現できない」、

「そう。通常のCDだと量子化ビット数は十六ビットで、ダイナミックレンジは約九十六デシベルしかない」、

「それ、DVDオーディオの記事で見たんだ。DVDオーディオやスーパーオーディオCDでは、CDとは比べ物にならないくらいのデータ量を持っているはずだ」

翠はうなずいた。

「DVD オーディオでは、サンプリング数がおそらく九六キロヘルツくらい。量子化ビット数は二〇ビットから二四ビット・・・・・・。音の周波数でいえば、おそらく 十万ヘルツほどの音まで再現可能で、ダイナミックレンジも百二十デシベルから百四十四デシベルはある・・・・・・。」

この件は、登場人物の翠、本名を結城翠という、絶対音階を持ち人の不可聴域まで聴こえてしまう超人的耳の持ち主で警視庁科学特捜班の職員であるが、盗まれたストラディバリウスの捜査 で、某ヴァイオリニストの音癖を彼女がレコードの音で確認しようとした際の同じ科学特捜班のメンバーとの会話である。

24ビット96KHzの所謂「ハイレゾ音源」言い換えると「High Resolution音源」訳すと「高解像度音源」となり「なーんだ」という事になる。だが音は素晴らしく、確かにレコードの再生音に迫るものがある。

要するに超人翠はCDでは不可聴域が再現されないがSACDやDVDでは十万Hz位は再現できるから、ヴァイオリンの倍音が織りなす一種の空気感の様なもの を聴き採り、ヴァイオリニストによって作られてゆく、如何なるヴァイオリンにも共通するそのヴァイオリニスト固有の音癖を確認したいと云っている。

その事によって盗まれたヴァイオリンが本当に本人の物か否かを知ろうとしたということである。
音質の点で付け加えるならこの上レコードの再生音域はSACDやDVDよりも更に広い。無論録音時に低音・高音共にミキサーのさじ加減でカットされているとは云うものの、ハイレゾとは比較にならない情報量が刻まれている。

従っ て翠女史はレコードの音で確認したかったのだが、若いヴァイオリニストにはCDによる録音しかなかったのでそれでは駄目だった。しかし1枚だけハイレゾ音源のDVDが存在し、不充分ながら辛うじて確認可能だからそれを聴くしかなかった。

そこで上記の会話となった次第である。

フィルム写真とデジタル 写真の違いにも似たようなものがあって、フィルムは化学反応によって映し出されるが、デジタルはやはり数字というか記号を並べるのでどんなに高解像度にし てもギザは残る。対してフィルムは端からギザなど無い。今や顕微鏡でしか確認出来ないレベルだからどうでもよい事かも知れないが、その違いは実は歴然とし ているのである。

オーディオに於いてもデジタルはどんなに高解像度だろうとデジタルだから、この会話の中にギザの無いアナログレコードの音とハイレゾ音源やCDの音の違いが云い尽くされている。
不可聴域なんだからカットしても問題なかろうとしたのがCDだろうから、考えてみれば随分視聴者を甘く見たものだが、結果的にCDはレコードを駆逐した。

取り回しの良さとノイズの点でレコードに勝る。市場でそれが優先したからだろう。

レコードとCDの中間をゆくのがハイレゾ音源だが、24ビット96KHz、それどころか192KHzの音源だってSACDDVDオーディオなどでとっくに僕らは知っているはずなのに一般的には余り馴染みが無い。

不思議な事にそれが今になって俄かにハイレゾ音源として注目されてきている。
「神南署安積班」、こうした世の中のメカニズムには何時も驚かされるし、興味は尽きない。

一言で云えば、SACDDVDのオーディオに於ける位置付けが中途半端だったのだろう。
単純に良い音を求めるのならレコードの再生音には勝てないし、iPodで充分な視聴者は当然iPodで良いわけだから高額なSACDプレイヤーなどは買わない。

しかし、PCオーディオとなるとまた話は違って、最早日常生活にも欠かせない存在になってきたPCで手軽にレコードの音質に肉薄するハイレゾ音源を楽しめる。

そして、ハイレゾ音源が各社から配信され、それをダウンロードして入手出来る。

世の中が変わったのである。オーディオ界の維新と云ってもよいだろう。断髪令に廃刀令、レコードもCDも最早用は無いというばかりの勢いである。

映画「ラストサムライ」の主人公「勝元」が「西郷」である事は誰が見たって解る事だが、自分が維新を推進して全てを承知しながら武士の魂と心中した、矛盾だ らけの元勲の気持が僕は解るな。

レコードを捨ててしまったら、僕らは心に拘わる大きなものをまたもうひとつ失ってしまうような気がしてならない。

だが勝ったのは映画では大久保と岩崎を足して二で割った、名前を失念したがあの現実派の親父である。歴史では大久保利通が近代日本の礎を築いた。この事はあたかもハイレゾ音源が、今度こそ本当にレコードを駆逐してしまう事に似ている。

正しかったか間違いであったか、維新は功罪半ばだがPCオーディオはどうなってゆくのだろう。
維新が太平洋戦争の敗戦という一つの結末の遠因であったように、ハイレゾ音源もオーディオ界の何らかの事象を誘発する前兆なのかもしれない。

どうあれオーディオ界の劇的な変化は既に始まっている。

一昨年から僕はレコードのCD化を始めた。

新藤ラボのスワン印のSPU-ARA1474の黄金コンビで録音した甲斐があって、市販のCDと比べると雲泥の音の差である。しかし、理論的には録音した 時点で16ビット、44.1KHzの音に間引かれている訳だから、黄金コンビのエッセンスの一部が僅かに楽しめるに過ぎない。それでも音質の良さはハイレ ゾに引けを取らないから、今更ながら新藤ラボのアナログシステムとレコードの再生音の実力を再認識した次第であるし、その事は音が理屈通りに行かないもの であることを改めて証明していると云ってよいだろう。

アナログだけではなくデジタルの世界でも矢張り音は理屈どおりに行かないのである。
情報量と音質は密接に関係しながらも全く性質の違うものである。云ってみれば男と女の違いの様なものだろう。

情報量は男の思考感覚に似ており、音質というのは女の思考感覚の様なものである。
情報量は理屈の世界であって1+1は2以外にないから2は厳然として1より 大きいし、右と云ったら右であるし、左と云ったら左である。要するに理論が通用するが、音質は1+1が2とは限らず、2の時もあるが、時として0だった り、3だったりする。
右と云ったって左の時もある「好きよ」と云われてその気になってニヤついていると「やっぱり嫌いだわ」突然袖にされたりする。違うと 思うなら理屈通りに女を口説いてみるがいい。さぞかし詰まらん思いをする事だろう。

近頃は何事もすっかり大っぴらになって昔は日蔭の華であった元 男の美人達がテレビ画面などで大写しにされ、中には惚れたくなる様な可愛い子も居て吃驚させられるが、一歩を踏みだす気にはやはりなれない。こうしたハイ レゾのような女達を錯覚するともっと詰まらん思いをさせられるだろう。

尤も、それがいいなら何も言わないけれども、音の世界はこうした男女の機微と共通するどうにも割り切れないものがあるから、ややもすると何を聴いているのか解らなくなってしまう恐れがある。
CDが台頭し始めた時から一昨年まで僕はデジタルには全く関心を示さなかったから、と云うよりも新藤ラボのお陰で関心を持つ必要が無かったから、デ ジタルの世界では云ってみれば浦島太郎の様なものでSACDやDVDオーディオの知識が殆ど無かったので、間違ってCDに録音してしまったが、解っていた ら間違いなくハイレゾで録音していただろう。

そうしていたら恐らく黄金コンビの音質の半分くらいは残しておく事が出来ただろうと思うと後ろ髪をひかれる思いもするが覆水は盆に還らない。

録音したCDは山積みになって戸棚二つを占領している。レコードは押し入れを改造した大戸棚一つを占領しているからそれから比べるなら随分その体積が縮小し たとはいうものの、録音済みのレコードを破棄する気にはどうしてもなれず売るのも嫌で、結局録音したCDの戸棚二つが増えただけという何をやったか解らな い結果になった。これが黄金コンビでの録音でなかったら手間暇かけて録音したCDながら、さっさと片付けて仕舞ったところである。

先日SOUND SAVERというレコードやテープなどのアーカイブに特化した録音ソフトを買った。録音して、ノイズを除去し、トラックに曲名をいれ、PCに書き出す、と いうだけの単純なソフトだが、今迄使ったソフトよりノイズリダクションの性能が良く、音の劣化が極めて少ない。このソフトだけでも24ビットの録音が可能 だが、更に適当なオーディオインターフェイスを利用すると僕らにもハイレゾ録音が出来るようになる。もう一つ、33・45回転を78回転に変換する機能が 含まれているので、78回転機能が付いていないプレイヤーでもSPの録音が可能である。

試にアームストロングのKISS OF FIREを録音してみたが豪雨の様なノイズが見事に消え殆ど音質が劣化することなく、懐かしい濁声が再現された。

余談だがアームストロングはマランツのセットでオーディオを聴いていた。7に#9だった筈だがその中に10Bが含まれていた。この10Bも僕は売ってしまった。アームストロングの声は色々な事を思い出させてくれる。

御承知のようにSPの音などスペック的にはお粗末なものである。
ダイナミックレンジは狭いし、音が割れるし、ノイズは凄いし、嵩張るし、重い。
だが、その音に陶然とする瞬間はLPよりも寧ろSPの音に多く含まれているのは何故だろうと考えてみた。

答えはすぐに出た。

演奏者の出す音色にあるのだ。演奏の旨い下手は僕が語る事ではない。そうではなくて音色が違うのだ。SP当時の演奏と現在の演奏の違いは、要は音楽家のロマンと物事に向う心の持ち方、精神が違うのではないか。
無論曲に対する解釈も違っていただろうけれども、其れよりも音楽に向かうロマンの違いが大きく作用しているのだろうと思う。

そして、その人の持つロマンが音になって出てくるのだ。

写真の裏に撮影者の自画像が写っているのとそれは同じ事である。
現代人の僕らがそのロマンをどう感じ取るかは個人差もあろうが、時を追うごとにその理解が難しくなってきている。生きている環境が違うのだから致し方ない事で、特にデジタル世代は本で読むか想像するしかもうその時代の感覚を掴み取る事は出来ない。

だから、そうしたSPの音にある種の郷愁を覚えるという事は自分の生きた時代と生い立ちに拘わる事でもある。

僕の親は正にSP時代に生きていた。戦後ながら僕はSP時代の末期を垣間見ている。
そうした時代背景の中に生き、僅かにSPを聴くだけの環境が有った。

つまり昔懐かしくSPの音を聴く事が出来る体験を子ども時代に持っている。
どういう音質を良しとするかの背景は、だからその人の生きた時代と生き方が強く反映するのだろう。

高解像度音源の音が悪い訳は無い。理論的にもそれは文句のつけようは無い。
だから、この先僕は矢張り高解像度音源のPCオーディオを追いかけてゆくだろう。
だがどうしてだろう、現代の音(演奏)からはロマンが聴こえてこない。音に思い出が無いという事もあるがそれだけではない。

結局、SPに続いて青春時代から今迄聴いて来たLPの音、云い替えるならば自分の半生が凝縮された音を、つまりレコードのハイレゾ音源化に執着してしまう原因が此処にあるのである。
だからこの事はオーディオの性能やテクニック、オーディオのあり方の問題よりも寧ろ演奏に拘わる問題なのだ。

理論的にも聴感的にも素晴らしい音だからといって、意に染まぬ演奏を我慢する必要は無いのである。

好きな音楽を好きな演奏で(音で)聴きたいと思うとどうしてもレコードの音に頼らざるを得なくなる。それが僕の生き方だったからと云っても良いのかもしれない。

この先どれ程オーディオの音が向上しても、フルトヴェングラーや、クナッペルツプッシュの演奏は、オイストラフやハスキルやヌヴーの演奏は(あの音は)レコードでしかもう望み様が無いのである。

先月、平泉と小笠原が世界遺産に登録された。我々日本人にとっては喜ばしい事だが、彼らの演奏は全人類の心の世界遺産である。

精一杯ハイレゾ録音して、大戸棚一つをHDD一つに収めようと思う。

これで僕は体が動かなくなっても、指先一つで、それも素晴らしい音でフルトヴェングラーやハスキルを聴く事が出来る。

幸せな事だ。

2011.07.11