2015年5月8日金曜日

我が、蹉跌のオーディオファイル #21
.オーディオのブランド品

半世紀も前の話になるが60年代から70年代の前半に掛けて、若者の間ではVANジャケットが大流行だった。

アーリーアメリカンスタイルの一連のカレッジファッション、アイビールック、それは異常な流行り様であり、同級のあるグループなど全員が靴下からパンツまでVANであった。

髪型も短く刈りあげた、大工刈りなどと云ってしまっては身も蓋も無いのだろうけれど、フットボールの選手の様な、誰もが同じ型だったから並んで歩く後ろ姿で個人を判別するのは真に至難であった。

所属していた運動部の下級生にも過激なVANファンが居て、やはりVANのパンツを履いていた。ある時、皆同じ格好でいてどんな気分なのか聴いてみたら「親近感と安心感を覚えるから」と答えが返ってきた。皆がそうだったのか、彼だけがそうだったのかは知らない。

どうにも言葉が無かったが、成程考えてみれば学校や軍隊などの制服にはそういう気分を醸成する効果があるのかもしれない。一種の仲間意識の様なものだろう。
北 朝鮮軍の一糸乱れぬ行進など見ていると、衣服や動作や表情ばかりではなく、精神の統一性が顕著に見られ、心の奥底まで全く同じなのではないかと思えてく る。人として個人を識別するのは困難で、行軍そのものが、大きなゼンマイ仕掛けの機械であるかのようだ。彼らが極限まで真剣である事は引き攣った表情から 察しがつくが、違う角度から見ると何処となくユーモラスでもある。しかし、笑ってばかりはいられない、何か背筋が寒くなるような映像でもある。人はこうい う風になる事も出来るのだ。

VANジャケットの皆様にも大小の差はあれ同様の心理が働いていたのかもしれないが、彼らの視線は一様に、将軍様なら ぬ青山三丁目の角に向いており、其処をメッカと崇めるVAN信者達はその狭いファッションの中で互いに覇を競い合うという不思議な心理も併せ持っていたよ うだ。競争とか闘争というのは本能だという事が良く解る。
滑稽な事だが横並びのVAN教信者の中で他者との違いを何処かに見出そうとでもしていたのだろうか。

流行を追った事が無いからその当りの心理は未だによく解らない。が、どうあれ凄まじい流行りようだった。




40年前、オーディオの世界ではJBLが半ば神話の世界に入っていた。

 
そしてマランツとマッキントッシュ。


オーディオファンの間ではこれらでなければ世も日も明けない一時代があった。

アルテックも、JBLと並ぶ大ブランドだった。


あれから40年の歳月が流れ、今、オーディオはPCオーディオの世界に突入して、新たなブランドが生まれつつあるようだ。
一度ブランド品として名が売れて仕舞うと後は楽チンで、一定期間は黙っていても売れてゆく。
音楽などは二の次で「何を聴くか」よりも「何で聴いているか」が一義的な問題であったようだ。

VANジャケットが自分に似合うか否かは二の次であったように「何で聴いてるんですか」と聴かれて「JBLです」と小鼻を膨らませて答えなければ格好にならなった。
加えて「アンプはマッキンです」、「私はマランツです」と答える事が出来れば大得意の満点であったのである。そう、マークレビンソンという腐れアンプもあったが、今日では「LINNです」と答えねばならんのだろうか。
「パンツは」と聴かれて「VANです」と答えなければならなかった彼等ももう老人である。その老人に向って「パンツは」と聴く者もいまいが、「越中です」と答える事が出来るなら、ジジイになってみれば満点かもしれない。
やっと自分に心地よい服が何なのか解るようになったのである。
じゃあ、ババアはどうすりゃいいんだと云う事になるが、知った事か。気味が悪いがTバックでも履いとりゃ良かろう。

同様に今、「JBLです」と答えるマニアは随分減ったのかもしれない。
でも換わりに「LINNです」と答えなければならないのなら心理的レベルは進歩していない事になる。
どうあれ、カリスマ的な目玉商品を人々に印象付ける事が出来れば流行を造る事が出来る。
サッ カーの沢さんの様なスターが生まれると、女子サッカーは底上げされ、そこに様々な関連商品が生まれてくるのと同じである。サッカーチームも沢山できて、チ ケットも売れて商売になる。例外は中国人の人間離れした意地悪だが、要するに人間離れしているのだから相手にしなければ良いだけだ。こういうのは例外と考 えてよいだろう。

巨人・大鵬・卵焼き、朝青竜はちょっと品性に欠けて今一つだったが、普通なら誰もが知ってる大スターの歩くところには商売が付いて回るのである。

だから今、PCオーディオのスターを造ればオーディオの流行に再び火を付けることが出来る。

2007年以来、LINNはネットオーディオを引っ張ってきたというから、ならば日本の業者や提灯持ちの評論家がカリスマに祭り上げたということかもしれない。

そのこと自体ちっとも悪い事ではないし、ネットオーディオも面白いから寧ろ歓迎すべきだが、アンプ一個が数百万円、プレイヤーも数百万円。何から何までLINNで揃えたら軽く1000万円を超えるという事になると、ウェスタン並みのバカバカしさである。

LINNの音を僕は知らない、こういう立ち位置にある音など知りたいとも思わない。

仮に知ってしまって物凄く音が良くても買わない。金が有り余っていても買わない。

オーディオに1000万円使うという感覚が無いこともあるが、ベンツが医者と弁護士とやくざのステイタスであるような、そういった物の有り様を有難がる気分が嫌いなので、それがどんなに良い物でも身近に置こうとは思わないのである。

しかし、ベンツを運転した人は異口同音に「素晴らしい車だ」と云う。それはそうなのだろうと思うし、LINNも然りなのかもしれない。
比較するなら、僕の持っているオーディオなど多寡が知れていて、全部合わせたって幾らの物でもない。

所謂ブランド品は1台も無いし、欲しいとも思わない。

なにも僻んでいるわけではなくて、今も云った様に持っていて嬉しくないのである。
自作派では決してないつもりだが、イコライザーとプリアンプは回路図を基に自分で組み立てた。パワーアンプは二束三文のダイナコMKⅢを自分で手直しした物を使っている。

トーンアームもジャンク品を手直しした。それでいて音楽を聴くのに何の不足も感じないでいる。
加えてハイレゾの扱いが楽になってきて楽しみの幅が大きく広がり、利便性も随分よくなって、いよいよ満足度が向上している。

レコードに刻まれた音を色付け無くフラットに再現できるなら、そしてオーディオで音楽を聴くのなら、オーディオはこの時点でもう充分にその役割を果たしていると僕は思う。

35年前、僕はぷっつりオーディオ雑誌を読まなくなった。
参考にならないからであったが、余りに過激な人達が登場して、全員揃ってパイプを咥えている姿が気持ち悪くて見るのが嫌になったのである。
表現が違っていても云う事が全員同じであるところも気に食わなかった。一人が誉めると全員が誉め、貶すと全員が貶す。そいう事なら評論家など一人で充分だったと思うが、当時はこの仕事が金になったのかゴロゴロいた。

仕事で某国に行った時、有る店で店員が「これこれ」と云うから何かと思って聴いてみたら、自分達の間では日本人が来たらそう挨拶するのだ、と云う。

彼女が云うのに、日本人は店に入ってきても最初はなかなか買おうとせず、ややあって一人が雄を振るって何かを買うと、周りにいた日本人が一斉にレジに殺到し、それを指差しながら「これこれ」と云って買うのだそうだ。彼らはそれをからかっていたのである。
僕は日本人だから、これが言葉の障壁に依る、団体様御一行の止むを得ざる行動であったと察しが付くから大いに同情もするし、近所への土産物なんか何だって良 いわけだから、そういう仕儀となったと察するし、同胞が馬鹿にされて面白い訳も無かったが、個人主義の発達した欧米人には全く不可解な光景と写ったであろ う事も理解出来る。

だが、何も欧米諸国まで行かずとも、そういう傾向はこの国の至る所で見る事が出来る。
一人の評論家がJBLを誉めると数人の評論家が異口同音に誉めちぎり、其れを読んだ読者が揃って「これこれ」とJBLを求める。僕も私もJBLという構図が簡単に出来上がる。

斯く云う僕だって僅か半年の間だったとはいえ、一度はJBLを手にした事がある。

赤信号皆で渡れば青信号ではないが、そこに何らかの親近感と安心感が生まれると云うなら馬鹿げた話だ。日本人は何時から群れてしか行動出来なくなったのだろう。

徳 川300年の間に戦国のバイタリティーは消え失せ、飼いならされ、お上絶対、右向けと云われたら全国民が一斉に右を向く、左を向いたり正面を向いたまま だったりすると即刻村八分にされる。徳川300年を倒した明治維新も政権が変わったと云うだけで、日本国民の精神を根本から変えるだけのインパクトは無かった。続いて明治から100年、計400年の間にじわじわと醸成されていったお上絶対で横並び主義の、世界でも稀有な国民性を我々は持っているから、ま あしょうがないと云ってしまえばそれまでの話かもしれないが、オーディオは矢張り音楽芸術に拘わる話であり、芸術は主張なのだから、芸術鑑賞の手段として のオーディオを考えるとそれでは少し情けないのではないか。

余談だが、アメリカの世界戦略が悉く失敗している遠因は、このような稀有な国に戦争で勝った後の、対日占領政策の成功にあるのではないかと僕は思っている。
神風特攻隊まで飛ばした日本が、終戦と同時に千切れんばかりに星条旗を振り回してアメリカ万歳。フランス人がナチスドイツに対したレジスタンスの精神など欠片も日本人にはなかったのである。余りにも容易かった。

敢えて解説するなら、日本国民にとってはお上が変わっただけのことだったのだ。

真に従順な、こんな国は世界中どこを探しても無いという事にアメリカは気が付かなかったのだ。そういう国の占領政策を施行するのは簡単で、怒鳴りつければ何でも思うようになった。それに味をしめて同じことを世界各国で行ってきた。
柳の下にこんなおかしな泥鰌が何匹も居る筈がないのである。居るのは相変わらず日本だけである。

だが、アメリカが忘れてならないのは、日本人はそれだけの民族ではないということだ。
300年の歴史しか持たないアメリカにはその事が理解できないかもしれない。

日本人の精神性の多くは死んだけれども、死に絶えたわけではないよ。と個人的にはアメリカよりも今は中国に向ってそれを云って置きたい。

今年の7月になって、僕は35年ぶりにオーディオ雑誌を読んだ。

評論家のメンバーはすっかり代って往年のパイプオジサン達は一人も登場して来ない。
代って彼らの子供か孫くらいの年齢と思しき若者達が評論家として登場している。
それにしても、昔も今も評論と云うのは何故あんなに表現が難しいのだろう。
まどろっこしいと云うか、解読には随分な苦労を強いられる。うっかりすると結局何を言っているのか解らない事もある。

権威付けでもしたいのなら阿呆な話だ。
たまたま読んだ某誌に僕が使っている機器の評論が載っていたので読んでみたが、不思議な事に機能が一つ増えていた。


MCTLと云って、意味はMCトランスレス、詰まりMCカートリッジを使う時のヘッドアンプで、平塚にあるVenetorSoundのAudio製品である。これが何とMMにも使用できると書いてあったから、そうだったのかと早速試してみた。




このヘッドアンプは様々なMCカートリッジが使えるように入力インピーダンスの切り替えが出来るので全て試してみたが、どうやっても僕のMM(ELAC STS-322)で使う事は出来なかった。

きっとカートリッジが古くて襤褸なので駄目なんだろうと思うが、どのMMなら使えるんだろう。是非とも教えて頂きたいものだ。
MCTLはこの評論家が通り一遍に云うよりも遥かに優秀だと僕は思っているから、使えるMMカートリッジがあるなら是非とも使いたいのである。


だが、こうも云っている「このアンプはカートリッジの色を出さない」。
音のプロである評論家が間違えるわけは無い、ならば僕の耳は随分いい加減だった事になる訳で、SPU-Aの音だと思って今聞いているのは、実はそうではなくてMCTLの音だったわけだ。
だけど、僕はSPU-Aを35年間聴いて来た。
その音は何だった事になるんだろう。


新藤ラボの新藤さんは僕を騙すような人ではない。35年前ここで買ったSPU-Aは確かにSPU-Aであって、それを新藤ラボのRA-1474で僕は聴いて来た。

そのRA-1474を泣く泣く手放した後、正確に云うならRA-1474に付いているトライアドHS-1トランスの代りに今聴いているのがMCTLである。

その耳で今聴いているSPU-Aの音が、実はSPU-Aの音ではなくて、MCTLの音だったとは夢にも思わなかったし、やっぱりSPU-Aはいいなあと思って聴き惚れていたんだから、我ながら呆れてものが云えない。
MCTL はそのSPU-Aの音を色付けせずフラットに、そしてより明確にSPU-Aの音を細大漏らさず聴かせてくれるので、何ものにも替え難いと思っていたのだ が、そうではなかった訳だ。しかもMCTLが開発される遥か前から、実はMCTLの音を聴いていたんだから魂気る。
そういう事ならMCでさえあれば、いや、MMだって、カートリッジでさえあればどんな糞カートリッジでも、今聴いているSPU-A、いやMCTLの音で聴く事が出来る訳だ。
昔守屋弘が歌っていた。「有難や、有難や」嬉しくて踊りだしたい気分である。
どんな腐れカートリッジだって今の音に変身してしまう訳だから、SPU-AELACも売って金にしちまって、何時も安物の服しか着ていないから、ちょっと洒落た服でも買おうかな。一緒に歩く家内が喜ぶかもしれないし、そうだ、家内に何か買ってあげようかな。
悪口を言いたいのではないからもうここらにして置くが、僕としてはこの素晴らしいMCTLがブランド品にならない事を願ってやまない。
勝手な事を言うなら「知る人ぞ知るMCTL」であり続けて欲しい。

一 言、MCTLはやはりMCトランスレスだと確信を持ってそう思うし、他のカートリッジでどうなのかは知らないが、SPU-Aに限ってはその特徴を最大限に 引き出す、滅多に出ない優秀なヘッドアンプだと、この記事を読んだ後も確信を持って聴いているし、他のMCカートリッジだと突然その特徴がかき消えるとい う様な事はあり得ないとも思っている。

2011.10.21